伝える

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妻の誕生祝でうちに来た、うさこちゃん

日没前後に住宅街を歩いていると、夕餉の匂いや音がしてくる。自分が死んだ後も同じような匂いがしてるんだなと思うと、切ない気持ちになる。その切なさを「未来郷愁」と呼んでいたのは上京して間もない頃、酎ハイ片手に知らない町を歩いていた頃である。夏の家賃が安い一帯では稀に情交の音も聞こえてきて立ち止まりそうになり、慌てて酎ハイを飲んで誤魔化すような頃だった。また自分が生まれる前にも、同じ匂いや音がしていたんだなと思うのも切ない。郷愁というのは意識が向いた時に想像によって起こるものである。別の切なさでは、今全力で生きて見せられた瞬間などもあって、それは取り返しのつかなさに震えるようである。どんな切なさにせよ、生きるということに密接な感情なので好きだ。

切ないのは死ぬからである。いつ死ぬかはわからないが、必ず死ぬ。あ、死ぬじゃねえかと思うと何かを伝えなければと思う。自分が死んだ後に生きる人たちに、自分が生きて感じたことや経験を伝えたい。何かは、具体的に生きていく方法だったり、方法までいかないただの実例だったりする。それは子供がいてもいなくても変わらない。せっかく生きたのに、もったいない。

先日伊集院光の朝のラジオにゲストで佐渡島庸平という編集者が出ていた。作家のエージェントとしてより面白い本を作ろうとしている彼の話は面白かった。彼が携わった『ドラゴン桜』という東大受験の漫画は、作家が元々描いていた野球漫画における目的達成の為のメソッドや、若者が必至にがんばる姿は美しいと思う感性に共感した氏が、興味を持つ人数の多い大学受験に場を変えて生まれたものだという。すごいなと思ったのは、続編の『ドラゴン桜2』では前作を読んで東大に合格した現役学生を集め最新の受験メソッドを作ってもらい、さらに実際に高校生に直接教えたりしているということだ。リアル「ドラゴン桜」が実現しているというのである。氏は再現性のある形で言語化することが重要であり、情報を簡略化して再現することが肝だと言っている。※佐渡島庸平氏(株式会社コルク)にインタビュー

再現されるものは、作家の純粋な好奇心やワクワクが向くもの。それができれば、沢山売れるし、少なくとも友達ができる。今の世の中で重要視されるのは、友達がどれだけいるかだ。金があるかとか、SNSのフォロワーが何人いるかではない。極端な話、国が国民の面倒をみなくなっても(既に形骸化は進んでいるが)助け合える人がいれば生きていけるだろう。だから他人に伝えることについて、いつも考えている方がいいのである。相手や自分の状況によって伝え方は変わる。使う言葉や伝える順番、身振りや声のトーンから派生して歌や楽器、プレゼントや建物、カメラで写す被写体まで、あらゆるものが伝えるツールになる。そして伝える時、自分の感情をどう取り扱うかも重要だ。感情を整理する中で、自己同一視についても考えることになる。何に、何故、どこまで、自分は自己同一視して、感情を動かしているのか言語化した方がいい。近年話題になる家族や社会の問題も、当事者による言語化から始まったものだ。

だが感情の取り扱いは、整理してもしきれない。何かに仮託しても瞬間ごとに変わっていく。自分は感情の起伏が小さいというのもあり、今俺はこうなんだ!ぎゃー!というのも嫌いではない(むしろ好きだ)が、ちょっと寝かして他人事にしてから出したい。できるだけ私から離れて、ただ切ないという気持ちになったものを出したいと思ってしまう。格好つけなのかもしれないし、リアルタイムに未整理の感情を出すのが恥ずかしいのかもしれない。ただ、そこに自分がいる/いないが曖昧になった状態が一番好きなのは間違いない。酒の好きなところも、今ではそこだけである。切なさにこだわっていると、色んなものが切なく見えてくる。その中には自然や他人も含まれる。死ぬんだなあ、今は生きているなあと思う。

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タイムラインで流れてきたライブ情報。朝崎郁恵さん出演。
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いいなあ。

奄美島唄などを聴いていると、とても切ない。住宅街をうろついていた頃の自分にも近しく、家で仕事をしている自分にも近しい。それでどうしたということはないが、どんな時でも泣き笑いのような切なさが底にあるのだと伝えたい。それはきっとみんな一緒だと思う。理由は今、生きているから。