マヌケ

虫や人以外の動物を見ると、小さなものたちは食べたり食べられたりしているし、大きなものたちは遊んだり漏らしたりしている。野生から離れて生きられていると、生命維持とは関係ないことをし出すのが生き物で、人も同じだと思う。

山下陽光さんの牛丼ラジオがきっかけで入手したミランダ・ジュライ『最初の悪い男』妻が読み終わったので読んでいる(最初ミランダ・カーと書いた)。主人公の頭の中がそのまま書いてあるような文章に共感する。
中身は自分が考えることとは全然違うし、何故そう思うのかは一切書かれてないが、連想や想像が炸裂してるところ、正直であるところ、何かが起きる度に変わりながら、こだわりや癖は変わらないところがよい。
意識は複数の異なる情報を同時に処理する為に生まれ、主に生存の為に使われていると思う。でも大半は生存と関係ない事を考えてるし、瞬間瞬間に立ち上がる意識は決して論理的には繋がってない。PCの基本ソフト(OS)だったら間違いなく故障だが、表向きには概ね問題なく見えるんだから、生きてるって意味がわからないし雑だ。一緒だなあと思ったわけである。
まだ読み終えてないがさらにこの主人公は、妄想と現実を分けずに生きて何の祖語も感じていないし、妄想を現実の対処に意識的に使いながら、無意識に妄想の暴走に晒され普通に困っているところもよい。「みんな大人のゲームをしているんだ」という考えは楽しいので使っていきたい。

誰かの頭の中をそのまま見てるような気がする本、他人へ説明する為に変換される前の言葉を繋げて物語の体を成したものはあまり知らない。冒頭にそういう文章を並べて読者を引き込むというのは案外よくあるのかもしれないが、『最初の悪い男』を読み始めて最初に連想したのはキャサリン・ダンの『異形の愛』だった。

「ママがギークだったころはな、夢っ子よ」とパパは言ったものだった。

から始まる小説。夢っ子って何?ママを指してるなら江戸っ子口調なのはキャラ?パパに話しかけられてる人を指してるとしたら、〇〇よって偉そう。夢っ子?と混乱した。
上の文には「ママの首ちょんぱはそれはそれは見事だったから」と続いていくのだが、理解しようがなくてとりあえず読み進めるという経験を初めてした本だった(ちなみに「夢っ子」は確か子供たちにパパが付けた愛称だった)。内容はあまり覚えてないけど、圧倒されるような面白さがあった気がする。町田康の小説にも、何かそういうのがあったような気もする。

とりあえず理解は置いておいて、まず書かれている者の感情を把握しようとする。読み進めて慣れると、無理に理解しようとも思わなくなっていくのが面白い。結果理解できることもあるし共感を覚えることもあるが、もしそれらがなかったとしても「そういう風に生きてるんだ」と自分の「生き物引出」に仕舞うことができるのでよい。ただ説明のない文章に慣れると、ただ理解を求めてくる文章が鬱陶しくなったりもする。

現実はそうでなかろうが、全然構わない。現実とリンクする時もたまにあって、実際に生きることを楽しんでいるのであれば、妄想で全然構わないと思う。でも現実に対処するための妄想や空想世界の構築というのは、しばしば「そうでなければならない」思い込みと結びついて、周りの生き物を傷付けまくる存在になってしまう。そういう人も大概悪い人ではないのだろうが、周囲から距離を置かれてしかるべき害である。
だから「私は今こういう状態で、こういうことを考えています」と他人に伝える為に、言葉を尽くすということも必要なんだろう。もし内容が他人を傷付けるものだったら批判され、批判されたら内容を省みるという繰り返しに努めることが、いわゆる楽しい社会生活に繋がるのだろうし。意思表示の容易な健常な大人ならまだよいが障害のある人はどうなのか。幼児は、老人はどうなのか。自分の来し方にも意思表示が難しい、できない時間はあったし、行く末にもあるだろう。著しく弱ったりする可能性もある。だから意志表示が難しい人の希望や考えを理解して共有しようとするのは、今しかできない大切な研究なのかもしれない。

子供ができた時、どうやって子供にこの世界のこと、社会のことを伝えようか考えて一旦途方にくれた。虹はなぜあんな風に見えるのかすら、わからせる自信がない。自分はどうやって教えてもらってきたのか考えて、結局その時は、世界についての知識は一緒に勉強する、社会でのふるまいは自分がされて嫌なことは他人にしないとか、基本ルールだけ教えて、あとはその場その場で対応するかあなどと呑気に考えていた。幼児の育て方について、現在幼児を育ててる人の記事の中では下田美咲という人が筋の通った考えを実践しているようで更新される度に読んでいる。→幼児に「人間らしい生活」を教える必要なんてない
「よそ」と「自宅」で振舞いが違うことを教えた方がいい。大人もそうしてるんだから。なるほどそうだなあと思う。この世界への知識がなく、自分の思い通りに動いたり、意思表示ができず苦しんでいると想像すること。そういった幼児への寄り添い方が自分事で素晴らしい。その余裕を持つために、また色々工夫しているみたいだ。

妻のゆかちゃんは最近、脳性麻痺低酸素脳症になった子供たち、大人たちのお世話をするバイトを始めた。自分も話を聞かせてもらいながら、その子たちがどんな世界を生きているのか知りたい。苦痛を訴える、喜びを伝える、そういう意思表示は言葉でもしぐさでも音を出すでも、とても大事だな。とりあえず生存には問題ない健常者がする表現との違いはなんだろうかと思うと。やはり生身の自分から離れた言葉やふるまいというのはつまらない。そしてカッコいい自分とか、意味のある自分とかにこだわるのは、さっさとやめた方がよくないかと思う。全ての生き物は意味も無くマヌケなものだと思うので、意味も無くマヌケに生きていく自由にこだわりたい。こうすべきとか、答を押し付けてくるものは野蛮でつまらないし、街やネットで遊んだり実験してる陽光さんとか、本当に面白い。

幸いこれまで素の自分というか、恥ずかしい所を見られる機会は沢山あり(主に酒やうっかり)それでも変わらない人たちに安心したり、大きく態度を変える人たちに謝ったりしながら、恥ずかしいことが当たり前になっていったので、他人の失敗も大概は許せると思う。自分の常識が通じなくてどうしてくれるんだとかいう人は、自分の常識を見直せばよいだけのことである。非難されるのは自分の常識を他人に押し付けていたからで、そのことを恥じて申し訳なく思えばよい。皆もともと恥ずかしいもんなんだからマヌケでも大丈夫だって。と言いたい。まあ言ったら大概怒られるんだけども。

しかし今回も長すぎて辛い。ゆかちゃんは早く阪神戦のハイライト観ようというし、大体内容が大き過ぎるのだと思う。文章も乱視気味だ。先日家に来た友達の赤子に二の腕を吸われた時の話とか、最近夜中になるといなくなるおひとりさまツバメの丸ちゃんには恋人ができたのかもしれないとか、そういう話だけ書いていればいいんだ。俺が格好つけんなと思うが、意志表示したかったんだとも思う。マヌケである。

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他人の思い出深そうな渡り廊下