楽しいと悩ましい

しばらく書いてないとただの経験や思いが積み重なって編まれないまま重くなる。重くなると意味が無いのに意味があるような気持ちを持ち続けることになり、苦しい。脈略のないものは脈略のないまま一枚ずつ並べるように書き出すと、余計なものが付きにくくてよい。

外にネズミが食べ物探しに出てきた。こちらには臭いや音で気付いているが、網戸越しに目が合っても逃げず、家の足元をうろうろしている。前にピーナッツを穴に投げたり、雨の日に鳴き声を聞いて「見つかるよ」と話しかけたり、出てきてもただ見ていた人だと覚えているのかもしれない。チラシ投函人の足音で、また穴に入っていった。

意識しなかったり場所を忘れてしまったりするだけで、全ての経験はきっと覚えているのだと思う。だからひどいものを目にすると腹が立つのだろう。食べ物も味も音もにおいも文字も運動も感情も情報。命に関わるような重要なものはDNAに組み込まれるのかもしれない。だが風呂で垢と一緒に流れていくような、大半の情報も愛おしい。だから楽しい。

中村佳穂の最近のライブ映像がYouTubeにあったのでSNSでシェアした。流してみるとMCと歌の境界が曖昧だった。彼女のことはスティーヴ・エトウさんのfacebookを見て知り『AINOU』というアルバムも買っていた。改めて何がよいのか考えてみると、声やピアノの弾きこなし方はもちろんよい。でも何より初めて会った人と即興でやってできた曲を、完成形としてアルバムに入れてしまうセンスがよいと思う。また、使い方が合ってるかはわからないがエモい。

「みんな同じ辛いのよ。」 そうやってあの子は慰めますが 私の気持ちが見えるのかい それならどうして 遠い遠い向こうには 僕より苦しい人がいて それならどうして 分かっているのにどうして(中村佳穂『忘れっぽい天使』より)

『アイアム主人公』という曲もある。今の気持ちをそのまま曲にしてる感じ。気持ちは変わっていくが瞬間を爆発させたような楽曲はエモく、未完成のまま踊り続ける娘を見ているような気持ちになる。『夜のダンス』という曲が好きなのだがその曲に限らず、彼女はいつも踊るように歌っている。

美容室でシャンプーしてもらう度にこんなことまでしてもらって申し訳ない気持ちになる。自分は他人に気持ちよくしてもらって当然の人間などと思いたくない。でも好きでやってると思えたら有難いとだけ感じるのかもしれない。もし好きな人だったら気持ちよくなってほしいと思う。やはり自分は一部の人間を除いて好かれる人間ではないと思っているらしく、だから自尊心は低いのかもしれない。こういうこと書く事もエモいと思うのだが、使い方は合っているだろうか。つか仕事だし、て話でもある。

今の社会では自分の欲望と執着を殺して、我慢するのが大人だと思い込んでる人が多過ぎるようだ。勝手に思い込んで溜めたストレスを暴力の形で吐き出していて、自分の家庭や移動中の車内や飲食店での被害が止まない。理不尽を我慢させられてるだけではないか注意しなければならないし、欲望の満たし方についても考えなければならないと思う。日曜は選挙だ。

昨夜食べ残していたポテトチップスのりしお味を茶碗にあけ、箸で食べていた。いけないと思いつつ、残った5mm~1cmの破片を網戸を開け外に撒いてしまった。今みたらダンゴムシが食べていた。撒いた時はお腹空いてるだろうとしか思ってなかったが、こういうことをしているといつか油断したネズミが留守の間に出てきて、たまたま誰かにみつかり、よかれと思って殺された姿を目の当たりにする可能性も高くなるかもしれないと思う。だから悩ましい。

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左巻きの蝸牛