いのちという名の菓子もある

生き物には不思議なところがある。当人は知らない内に生き始めていて、後から生きてるとはどういう事なのか、知識として知るようになる。でもその知識は限定的なので、生きているとはどういうことか曖昧なまま、でも自分は生きていると死ぬまで思っている。生き物から生まれたものは、周囲にも生き物と認識されるので、少なくとも生き物として取り扱われる。生きているというのは感じることであり、こだわることである。こだわりを持たないことは、死んでいることに等しい。それを周囲に証明する方法は表現しかない。

先日、本とぬいぐるみを集めている作家の、自宅についての記事を読んだ。その中で「ぬいぐるみは生き物だ」とさらっと書いていた。わからない人にはわからないが、わかる人にはわかる話だと思う。妻にはわかる。子供の頃からぬいぐるみが好きで、今もぬいぐるみだけでなく生き物の形をした、かわいいものたちと生活している。結婚を機に自分もかわいいひとたちと話したり遊んだりするのが日常になった。自分には元々執着がなかったので、これがどういう事なのか考える機会にもなった。遊ぶ時や話す時、かわいいひとたちと触れる。手足を動かしたりとびはねたりしながら、かわいいひとたちとして考え、意志表示をしたりする。それぞれの趣味嗜好や、表現の方向性、ほかのひとたちとの関係性、などがある。また妻と自分の生活の変化にも関わってきたりして、家族としての時間が累積していく。

証明はできないが自分もかわいいひとたちは、生きていると思っている。もちろんベースには妻と僕の意図や性格が影響しているが、生き物が生き物として扱う物は生き物なのである。扱われる物が自分は生きていると思うかどうかは別だが、生き物として扱われる経験が増え、情報が集積される場所が、汚れや変形などを通じてもしできてきたとしたら、表現しなかったりしてもこちらが理解できなかったりするだけで、そう思っているかもしれないと思う。というわけで、個人的な生物の定義は今のところ「生物が生物だと感じた物」である。主観でほぼ完結しているというか、生きてると思ったら生きてるし、他人が生きてないと思っても別にそれでいいじゃないかという感じである。


La Promenade-WOWid

アニメーションの語源がラテン語の命を与えるものだった気がする。市原悦子は人や獣だけでなく、石でも神でも野菜でも、色んな物として話してくれた。まずは自分事として想像してみること、それから物語に色どりを与える個性を創造していくことで、観る側に生きているように感じさせることができる。むかし映画学校で教わった「脚本を書く際、登場人物には自分と同等の知性と感覚を与えなさい」ということを思い出す。それがないものは生き物として感じられないのである。
「僅に三十一文字を以てすら、目に見えぬ鬼神を感ぜしむる国柄なり。」とは斎藤緑雨の言だが、生きているかどうかということに鈍感ではいられないというのは、どこの国の人でも同じだと思う。

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ぶどうが届いた

3万冊の蔵書と、4000匹のぬいぐるみ…新井素子の「捨てない」暮らし(婦人公論.jp) - Yahoo!ニュース