独りよがり

※現在はこちらで書いてみてます

私は今年39歳で、5年前の冬に結婚した。妻が私の妻でいてくれること、つまり自分と違う人がそばにいてくれるおかげで、ようやく自分も相対化して見られるようになった気がする。
私は友達が少なく、実家でも学校でも職場でも、個別の人間性まで話すことはなかった。喧嘩も殆どしたことがない。が、妻とはしてきた。彼女のおかげで、自分に正直になるということもわかってきたような気がする。

このあいだ妻に「あなたは独りよがりってどういう意味で使ってるの」と聞かれた。「あるがままの事実を無視して、自分の都合のよい解釈をすることかなあ」と答えた。すると「(独りよがり)に(あるがままの事実を無視)なんて意味はないよ」と言われ、自分が付け加えた意味だということがわかった。

文章にせよ発言にせよ、私の表現は意味がわかりにくいと言われる。
確かに、急にスイッチが入って語り出すと、聞く人の目が段々と死んでいくので間違いない。
一方で妻は哲学科出身で、大学を出てからずっと俳優をしている。彼女が言葉や事実の正確性にこだわるのは「他人に伝えること」に取り組んでいるからだ。きっと私が使う他の言葉にも独自の意味付けがされてるだろうから、意味がわからないのである。

そう言われて考えてみると、わかりにくい理由が他にもどんどこ出てきた。
沢山あるので一旦書き出してみる
・結論(オチ)がないから
・欲望(目的)がないから
・格好つけている(ダサい)から
3つしかなかった。沢山あると思ったのは、派生して出てきた理由だ。めんどくせえやつだ。
下の方でそれぞれ説明を試みているが、自分で自分を語ることほどつまらないものはない。
だがこれからも「わかってないくせに」思ったこと感じたことをどんどん書いていくと思う。そうしたものを前に大人は早々に「読まない」という判断ができるが、経験の浅い人や若者に不必要な誤解を与えるのは悪影響でしかないと思うので、前もって書いておきたいと思った。
自己紹介という意味では、すぐ下の段落にまとまっていると思う。

私はずっと無意味は無価値でないと思っている。
どちらも「誰にとって」というのが現実では関わってくる言葉だが
ここで言うのは、純粋に意味としての無意味、無価値である。
自分自身が大半の人にとって無意味な存在だなあと自覚しているからでもあるが、
何より無意味は、偶然の出会いを生むからだ。
意味が有っても無くても、何かをすれば何かが起こるのだが
一般的に意味がないと思われることをすると、偶然の出会いが起きやすくなると思う。
現実で起こる、必然と必然が出会う偶然というドラマにしか
価値を見出せなくなっているような人間なのである。
だから他人を傷付けることでなければ、衝動でよいと思っている。
やりたいという気持ちさえあれば、意味を見出せなくてもよいし
私自身偶然生まれたので、偶然を起こして死んでいきたい

まとまっていなかった。

私は既存社会にとって有用な人間ではないので、毒にも薬にもならない発信しかできないが、物理的条件の異なる一個人として経験から感じたこと、考えたことの共有には意味が有る可能性もあるし、理不尽や困難があれば助けを求めたいし助けられることはしたいと思う。そういう意味での情報提供はいとわず、危険の伴わない範囲で晒していきたい。

やっぱりまとまってないし、違う話もしてしまっている。

ここまで読んでどうしようかな、と思った人は
この後もこういう文章が続くということをお伝えしておきたい。
とても長い上にその内容も「私の言葉が伝わらない理由」なんて
どうでもいいにも程があるとは自分でも思う。
知り合いは読んでもらえたら多少はいいのかもしれない。

1.結論がない
もともと人間とはどういうものか、生きるとはどういうことかに興味があると思っていた。表現、社会、自分の内省から、人間の本質を掴みたい。だが、私が語る時に答を持っていることは殆どない。気になることに直面すると、それが何なのか考える為に語り始めてしまうのである。何かが気になっているのはわかっているのだが、それが何なのかはわかっていない。だからいつも仮定や問いでしかない。

だが、仮定であることは伝わらない。前置きが無かったからだ。更に「毛が抜けた」等、即物的な状態への言及をせずにいられない癖に加えて、例えば他者と共有している問題の要素と、本質についての問いが並列に語られたりする。わかるわけがない。前置け、と思う。特に問題について語る時には「解決されるかどうかについては案外どうでもいいと思っている」ということが、伝わらない一番の原因だと思う。妻に指摘されてその通りだと震えた。問題というのは人間の本質的な部分が明らかになる機会でもあるので、興味を持ってしまう。解決することには興味がないのに。友達が少ないわけである。

2.欲望がない
どういうわけか自分の欲望を直感で理解できない。また当たり前やマトモがわからないことにもコンプレックスを持っていた。そこで何か感じたり考えた時にはメモをし、後でそのメモを整理することで、それが何なのか理解しようとした。私的なものなので、省略される主語は大概の場合「私」である。「〇〇だから▲▲べき」と書かれていたとしても、該当するのは私に限った話だ。私がどう感じ、どう思ったかということに過ぎない。人間の本質に興味があるというのも、自分がなんなのかわかりたいという欲求からくることは疑いないだろう。

なぜ欲望がわからなくなったのかといえば、社会に出る前に「欲望は誰もいないところで出すもの」と思ってしまったからかもしれない。他人に迷惑をかけてはいけないからであり、かといって欲望自体を否定することもなかったようなのである。やがて独りの時間が減り、自分の欲望にも向き合えなくなった。何をしたいのか無自覚のまま、社会に出た罰なのかもしれない。

直面する現実には「こだわらない状態でいることにこだわる」という矛盾で乗り切ってきた。私が私であることにこだわらなければ、基本的には何でもできる。出会いに任せて何でもあり、できないことはできないけど、できることはできる。だが自分の欲望は自分が自分であることの根幹であり、何かを語る上での目的でもあると思う。何がしたいのか不明瞭なので、わからないのである。

3.格好つけている
結論もなく目的もないのに、自分が気付いた普遍的な事実や感覚であるかのような語り方をしていた。省略されている主語が「我々」や「人間」のように受け取られたり、意味あり気な語りに「答を提示しているつもり」のように思われていたと思う。は?!って感じである。実際にあった出来事がテーマの時もあるので、猶更わかりにくい。そうして格好つけた分だけ、私からは離れた「嘘」となる。そんな時の、自分を見る妻の顔は物凄く怖い。

あとはこれも格好つけに入るのではないだろうか。酒である。酒を飲むと発信のハードルが下がる。結婚する前の話だが、しばしば泥酔してはここがどこで今がいつなのか、自分が誰で何をしているのかわからなくなっていた。さすがに泥酔しながら文章を書くことはないが、今も酒を飲んでいる。アル中ではないと思うが、毎日飲んでいる。あやふやに向かいかねない状態での語りを、理解することは輪をかけて難しいだろう。

そして最後に、何より長い。ここまで読んでくれたのは妻の他には、時間のある人に限られるだろう。本当にどうも有難うございます。今後はもっと面白い話を簡潔に書けるようにしたいと思いますが、多分無理です。本当にごめんなさい。求められてるわけでもないし。

最後に自作自演の自主映画まで貼っておく。
自分の根っこはこの頃から殆ど変わってないのかなと思う。
そしてこの文章も、酒の力を借りてポチっとする。

赤い姉さん(2003年)

ファン

 ここ数か月ノートPCのファンがうるさい。カバーを外して掃除しても、OSのアップデートやデータ整理をしても直らない。パーツ交換しかないのかもしれないが、最近ようやく気付いたのは、作業している状態というか、ある程度動かしていると音が止まるということだ。放置しているとまた鳴り出す。使い続けているとよいようである。考えることを止めるとうるさいというのは、人のようだと思ったりする。なぜそう思ったのだろう。

 本当にわかったと思えるまで時間がかかってしまうので、何となくやっていることばかりである。頑張ってわかろうと思っても、ひとつの事だけ考え続けることができない。頭は勝手に別の事と共通点を見つけてこじつけたりし始めるので、考えがまとまることがない。無理にひとつの事だけ考えなければならない時、連想を止めると今度は視野が狭くなってしまい何もわからない。

 何か考えたら、とりあえず書き出して仮止めしておく。自分で理解したいから書いておく。だが何かを理解するには新しい知見が要る。わかるためにわからないことが増えていく。自分の経験をできるだけ理解してから死にたいが、全然追いつかないのでいつも絶望的である。だが可能性がゼロになることはない。こうやって公に置くのは考えたことを失くさないためでもあり、新しい知見を得るきっかけになるかもしれないからだと思う。

 善かれ悪しかれ、人は可能性に魅力を感じる。既存の可能性(今できてること)には固執するし、未知の可能性(新たにできること)には興奮する。ただ魅力を感じるには「自分に関係がある」という条件があって、他人事と思うと何にも感じないようである。人は、と書いたが、人以外にはなれないのでわからない。

 理解する可能性はゼロではないとはいえ、生き物が世界に偶然触れる度に無数の印象が生まれ続けるわけで、自分が感じた事も全てわかりきることはできないだろう。動物園の檻の中で終日、同じところを行ったり来たりしている動物がいる。本来なら園全体の数倍の縄張りを持っていたはずが、実際に自由に動ける土地はわずかなので、地面を更に数倍も寄って認識することで、つまり些細な差異をミクロで見ようとすることで、自我を保っているのではないか。または脳内に浮かんだ広大な景色だけを見ながら、ルームランナーよろしくその場で足踏みをしているのではないか。そんな想像をすると、悲しい。やはり自分以外の事をわかろうとした方が楽しいのではないかと思う。悲しい。

 外側を楽しむには、自分と異なる人が傍にいるとよい。自分の存在や考えが相対化される。相対化されたからといって存在の価値は変わらない。どんどん相対化していくと、改めて「皆平等に相対的だ」と思うようになり、他人事も自分事に思えるのではないだろうか…ならない?…ともあれ何事も決めつける前に、まず自分事にできるか考える余地は持っていたいものである。年を取ると「こんなもんだろ」というのが増えて楽しがちだ。だがその分暇になるので、やたらと若者に意見を押し付けたり構って欲しがったりする。それに前頭葉も収縮して、怒りっぽくもなっていく。そして壊れかけのPCのファンのようになる。

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いのちという名の菓子もある

生き物には不思議なところがある。当人は知らない内に生き始めていて、後から生きてるとはどういう事なのか、知識として知るようになる。でもその知識は限定的なので、生きているとはどういうことか曖昧なまま、でも自分は生きていると死ぬまで思っている。生き物から生まれたものは、周囲にも生き物と認識されるので、少なくとも生き物として取り扱われる。生きているというのは感じることであり、こだわることである。こだわりを持たないことは、死んでいることに等しい。それを周囲に証明する方法は表現しかない。

先日、本とぬいぐるみを集めている作家の、自宅についての記事を読んだ。その中で「ぬいぐるみは生き物だ」とさらっと書いていた。わからない人にはわからないが、わかる人にはわかる話だと思う。妻にはわかる。子供の頃からぬいぐるみが好きで、今もぬいぐるみだけでなく生き物の形をした、かわいいものたちと生活している。結婚を機に自分もかわいいひとたちと話したり遊んだりするのが日常になった。自分には元々執着がなかったので、これがどういう事なのか考える機会にもなった。遊ぶ時や話す時、かわいいひとたちと触れる。手足を動かしたりとびはねたりしながら、かわいいひとたちとして考え、意志表示をしたりする。それぞれの趣味嗜好や、表現の方向性、ほかのひとたちとの関係性、などがある。また妻と自分の生活の変化にも関わってきたりして、家族としての時間が累積していく。

証明はできないが自分もかわいいひとたちは、生きていると思っている。もちろんベースには妻と僕の意図や性格が影響しているが、生き物が生き物として扱う物は生き物なのである。扱われる物が自分は生きていると思うかどうかは別だが、生き物として扱われる経験が増え、情報が集積される場所が、汚れや変形などを通じてもしできてきたとしたら、表現しなかったりしてもこちらが理解できなかったりするだけで、そう思っているかもしれないと思う。というわけで、個人的な生物の定義は今のところ「生物が生物だと感じた物」である。主観でほぼ完結しているというか、生きてると思ったら生きてるし、他人が生きてないと思っても別にそれでいいじゃないかという感じである。


La Promenade-WOWid

アニメーションの語源がラテン語の命を与えるものだった気がする。市原悦子は人や獣だけでなく、石でも神でも野菜でも、色んな物として話してくれた。まずは自分事として想像してみること、それから物語に色どりを与える個性を創造していくことで、観る側に生きているように感じさせることができる。むかし映画学校で教わった「脚本を書く際、登場人物には自分と同等の知性と感覚を与えなさい」ということを思い出す。それがないものは生き物として感じられないのである。
「僅に三十一文字を以てすら、目に見えぬ鬼神を感ぜしむる国柄なり。」とは斎藤緑雨の言だが、生きているかどうかということに鈍感ではいられないというのは、どこの国の人でも同じだと思う。

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ぶどうが届いた

3万冊の蔵書と、4000匹のぬいぐるみ…新井素子の「捨てない」暮らし(婦人公論.jp) - Yahoo!ニュース

クズと仏性

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edogawa
生きるのは楽しむためだから、楽しくないなら何か変えなければいけない。手っ取り早いのは自分を変えることで、自分を変えたいなら環境を変えるしかない。

環境を変えることで、意識のライトが自分を照らす場所が変わる。自分の中には天才/凡人/賢い/愚か/変態/真面目/傍若無人/弱気/得意/不得意/好き/嫌いなど、いろんな分け方ができる部分が混とんとしてあり、環境を変える事で違う部分にスポットが当たるようになる。

環境を変えるといっても引越や移動だけじゃなく、習慣を変えるだけでもかなり環境が変わる。何か学んでみるとか知り合いを作るとか、真面目や大変なことでなくても、とりあえず思い付いたら行動に移すとよいと思う。

子供の頃、父には「思い付きで行動するな」とよく怒られた。でも思い付いたら、衝動が消えない内に他人に迷惑かからないかなど考えて、かからなければ即行動に移せばよい。時には迷惑がかかってもよいのだと、経験から知った。思い付くこと、思い付くようにしていることの方が、楽しむためには大事だと大人になってからよく思う。

妻のゆかちゃんは介護の学校に通い始めて、元々優れていた役者の表現力というか他者との関わり力が、とても有効に活用されているようだ。さらに過去現在未来すべての生き物を慈しむ菩薩みたいな変わった適性も、実践の中で輝き始めていてすばらしい。夫は妻の話を聞いているだけである。

同じ場所にいても、やることを変えると頭の中の環境が変わる。でも同じ場所で同じことをやり続けてると腐る。ちなみに凄腕の職人などは傍目には同じことやってるように見えて、当人は毎回違うことをやってるように感じていると思う。他人には意味がなくても自分には意味がある。

遊びとは新しい経験をするために実験することだ。自分にとって新しいことを実験し続けていれば毎日楽しくなるはずであり、そこに思想などない。他人を傷付けたりしてなければそれでよい。それがわかる頭とセンスさえ残っていればよい。

山下陽光さんは0円の服屋をやったり、飲食店に百円玉を隠したり、遊びとして大なり小なり社会実験を繰り返している。生活自体が実験と遊びに溢れているが、行動に移す前の思考がしっかりしていて、他人にもわかりやすくてすごい。面白いので本も書いてるし、現代美術館で展示もされている。知らない人は是非検索を。

楽観、理由もなく自分が長生きしそうな気持が減ってきている。すぐにでも死にそうというわけではないが、例えばオリンピックがあると思うと憂鬱で、来年は日本で生きていたくないなと思う。だから環境を変えなきゃと焦る。焦るのが何より嫌いなのに焦る。

人とのつながりを沢山持てないと、この先生きていけないような気がする。ただ複数の人が作る「場」に参加するのは苦手だ。他人のためになることをするのに面倒だと感じたことはないので、個人間で関係性を作ることはできるが、その場の空気やルールを守るのが苦手で、酒乱だったりもするので、長くいる程にぶち壊して他人を傷付けてしまう。場に属せない。

よく優しいとか仏とか言われるが、要は自分がクズだとよく知っているだけのことだ。この先も楽しく生きていくためにどうするのか、考えて実験していかなきゃならない。そんな人間がよく結婚できたな、やっぱり妻はすごいなとも思う。流水不腐、和而不同。

効かないハッシュタグ

戦争は他者への暴力の正当化であり、政治の失敗であるとともに人間性の否定である。人間性とはいえ、人は弱さやくだらなさを抱えているものなので、暴力に走らさせないような環境が必要だ。社会的には暴力や差別を助長するシステム、またホモソーシャルな関係性の解体が、個人的には他者からの影響や欲望について自分を見張っていることが必要なのだと思う。

#表現
あいちトリエンナーレの件。自分や他人が暴力の正当化に向かってないか、都合のよい妄想に逃げてないか。表現とは、そういうことを確認できる機会なんだなと強く認識させられる。「まさかあの素晴らしい仕事をした人がそんな発言をするとは。。」みたいなことが、主にSNSだがそこかしこで起こっている。右傾化して死んだ自分の父親の話も誰かが書いていたが、知らない内に悪意に影響され妄想から逃れられなくなってたということは、誰にでも起こり得ることだ。安定した環境で老いると、頭が固くなる。だからという訳ではないが、みんな表現して確認し合おう、みたいな気持ちにもなる。わしボケてないか?と。ウザいかもしれないけど

#権力
あまり持ったことがないのでわからないが、他人の生活に影響を与えるような力を持つと、人は多かれ少なかれダメになると思っている。権力は頑張らねば(頑張っても)手に入らないだろうし、頑張って手に入れたものは守ろうとするんだろう。
保障であれサービスであれ生活に関わるシステムというのは、人はそもそもしょうもないということに加えて、権力を持つと人はダメになる、という前提でなければならない。中の人は死んでもシステムは生きていく。とりあえず後から生まれたものが損をするようなシステムは間違っていて年金返せこの野郎。

山本太郎は、現在のシステム改善に動いていてナイスである。街頭演説などで見る主張や提案がとても良い。「生活保護をバラで受けられるようにしよう」ナイス。すばらしい。でも彼も政権をとったら、ダメになるかもしれないとは思う。組み込まれる前にシステムが少しでも改善されたらいいなと思う。

権力の監視なんていうと大仰に聞こえるが、そもそも人は弱いしみんな死ぬ。個人が権力を担える期間は限定され、変えられてはいけないし、変えられないように監視するのが有権者の義務だろう。面倒くさくても仕方がない。これから生まれるものの為に、より良いシステムを残すのだ。その為に権力の監視が要るのだ。

#生物
ちなみに生き物は楽しむ為に生きてるんであって、子供を作るために生きてるわけではない。全体として新陳代謝は要るだろうが、少なくともさらに増える必要はない。子供を作るのは色々と条件が必要だしタイミングが合えば作ってもよい程度のことである。

どこにどう生まれてくるか自分では選べず、これからどう変わるのかも判らない。それでもなんとか現実を受け入れて生活を頑張っているのだから偉い。みんな我慢することない。楽しむことが正しい。もちろん暴力は他人の楽しさを奪うのでいけない。俺は何当たり前のことを言ってるんだ

どう変わるか判らないと書いたが、事故や病気で身体障碍者や精神障碍者になるかもしれないし、老いたら寝たきりになるかもしれない。介助や介護までいかなくても、人の力を借りなければ生きられていない。社会的弱者、全く自分事であり税金は弱者のために使ってください。

先天的な障碍者も社会的弱者と言われる。彼らの様子に健常者は衝撃を受け「かわいそう」などと口にする人もいるが、それはただ自分の認識の狭さを露呈してるに過ぎない。自由意志を自分一人で実現している人などいない。意思表示が難しい人もいるが、表現ツールの開発さえ進めば意思表示の難易度は下がっていくわけで、あとは健常者側の無知の問題である。そもそも他人や健常者にわかる表現をしなければならないわけでもない。

障碍者は健常者より賢い。もちろん知性もグラデーションであっておバカな人もいるだろうが、障碍者の世界と健常者の世界の両方を知ってる分賢い。限られた時間の中で、この世界の理解や楽しむことよりも経済を優先し、欲望をコントロールしようとしてきたり、現実から目を背けさせようとする、恣意的な健常者の表現や情報は不要である。純粋に生きることを楽しめている時点で賢い。知性は表現されなくてもある。もし楽しめてなければ、システムの改善が要る。

障碍者のことは、妻のゆかちゃんが支援施設で働き始めて前より身近になった。仕事から帰ってきたゆかちゃんの顔がいつも輝いているのは、彼らの純粋な表現に癒されているからでもあると思う。

#欲望と表現
欲望のコントロールは、持続可能な社会に不可欠なものだ。個人でできることといえば、まずは人間の欲望や好奇心が全方位に向いていることを自覚して倫理とか考える前に、経済で利用されていることを意識してみるとよい。経済活動に関する事、自分がしてる仕事も全て欲望に関わっている。食欲や性欲がわかりやすいが、全ての快不快や気分まで経済に利用されようとしている。そうはさせないぜ、と思う。意図や狙いを意識すると踊らされたくないぜとなる。日頃目にする情報の中には発信者がいないものもある。ただそこにあるものから観察者が読み取る情報を、もっと大事にしたい。意味のなさや目的のなさを守りたい。

それから嗜好品や習慣の中毒性や強制力など意識していくと、グルメ&ダイエット、オナ禁、禁酒、禁煙など、自分の欲望や外側からの影響に対して、向き合うことが平和な暇つぶしになっていく。欲望そのものを滅却したつもりになっても生きてる内は何かしらしたくなるもので、そこからまた見えるものを表現していけば、誰かがほほおと思うわけで、そこに特に意味はないけど、楽しい。

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月と電線 #でメロス

楽しいと悩ましい

しばらく書いてないとただの経験や思いが積み重なって編まれないまま重くなる。重くなると意味が無いのに意味があるような気持ちを持ち続けることになり、苦しい。脈略のないものは脈略のないまま一枚ずつ並べるように書き出すと、余計なものが付きにくくてよい。

外にネズミが食べ物探しに出てきた。こちらには臭いや音で気付いているが、網戸越しに目が合っても逃げず、家の足元をうろうろしている。前にピーナッツを穴に投げたり、雨の日に鳴き声を聞いて「見つかるよ」と話しかけたり、出てきてもただ見ていた人だと覚えているのかもしれない。チラシ投函人の足音で、また穴に入っていった。

意識しなかったり場所を忘れてしまったりするだけで、全ての経験はきっと覚えているのだと思う。だからひどいものを目にすると腹が立つのだろう。食べ物も味も音もにおいも文字も運動も感情も情報。命に関わるような重要なものはDNAに組み込まれるのかもしれない。だが風呂で垢と一緒に流れていくような、大半の情報も愛おしい。だから楽しい。

中村佳穂の最近のライブ映像がYouTubeにあったのでSNSでシェアした。流してみるとMCと歌の境界が曖昧だった。彼女のことはスティーヴ・エトウさんのfacebookを見て知り『AINOU』というアルバムも買っていた。改めて何がよいのか考えてみると、声やピアノの弾きこなし方はもちろんよい。でも何より初めて会った人と即興でやってできた曲を、完成形としてアルバムに入れてしまうセンスがよいと思う。また、使い方が合ってるかはわからないがエモい。

「みんな同じ辛いのよ。」 そうやってあの子は慰めますが 私の気持ちが見えるのかい それならどうして 遠い遠い向こうには 僕より苦しい人がいて それならどうして 分かっているのにどうして(中村佳穂『忘れっぽい天使』より)

『アイアム主人公』という曲もある。今の気持ちをそのまま曲にしてる感じ。気持ちは変わっていくが瞬間を爆発させたような楽曲はエモく、未完成のまま踊り続ける娘を見ているような気持ちになる。『夜のダンス』という曲が好きなのだがその曲に限らず、彼女はいつも踊るように歌っている。

美容室でシャンプーしてもらう度にこんなことまでしてもらって申し訳ない気持ちになる。自分は他人に気持ちよくしてもらって当然の人間などと思いたくない。でも好きでやってると思えたら有難いとだけ感じるのかもしれない。もし好きな人だったら気持ちよくなってほしいと思う。やはり自分は一部の人間を除いて好かれる人間ではないと思っているらしく、だから自尊心は低いのかもしれない。こういうこと書く事もエモいと思うのだが、使い方は合っているだろうか。つか仕事だし、て話でもある。

今の社会では自分の欲望と執着を殺して、我慢するのが大人だと思い込んでる人が多過ぎるようだ。勝手に思い込んで溜めたストレスを暴力の形で吐き出していて、自分の家庭や移動中の車内や飲食店での被害が止まない。理不尽を我慢させられてるだけではないか注意しなければならないし、欲望の満たし方についても考えなければならないと思う。日曜は選挙だ。

昨夜食べ残していたポテトチップスのりしお味を茶碗にあけ、箸で食べていた。いけないと思いつつ、残った5mm~1cmの破片を網戸を開け外に撒いてしまった。今みたらダンゴムシが食べていた。撒いた時はお腹空いてるだろうとしか思ってなかったが、こういうことをしているといつか油断したネズミが留守の間に出てきて、たまたま誰かにみつかり、よかれと思って殺された姿を目の当たりにする可能性も高くなるかもしれないと思う。だから悩ましい。

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左巻きの蝸牛

マヌケ

虫や人以外の動物を見ると、小さなものたちは食べたり食べられたりしているし、大きなものたちは遊んだり漏らしたりしている。野生から離れて生きられていると、生命維持とは関係ないことをし出すのが生き物で、人も同じだと思う。

山下陽光さんの牛丼ラジオがきっかけで入手したミランダ・ジュライ『最初の悪い男』妻が読み終わったので読んでいる(最初ミランダ・カーと書いた)。主人公の頭の中がそのまま書いてあるような文章に共感する。
中身は自分が考えることとは全然違うし、何故そう思うのかは一切書かれてないが、連想や想像が炸裂してるところ、正直であるところ、何かが起きる度に変わりながら、こだわりや癖は変わらないところがよい。
意識は複数の異なる情報を同時に処理する為に生まれ、主に生存の為に使われていると思う。でも大半は生存と関係ない事を考えてるし、瞬間瞬間に立ち上がる意識は決して論理的には繋がってない。PCの基本ソフト(OS)だったら間違いなく故障だが、表向きには概ね問題なく見えるんだから、生きてるって意味がわからないし雑だ。一緒だなあと思ったわけである。
まだ読み終えてないがさらにこの主人公は、妄想と現実を分けずに生きて何の祖語も感じていないし、妄想を現実の対処に意識的に使いながら、無意識に妄想の暴走に晒され普通に困っているところもよい。「みんな大人のゲームをしているんだ」という考えは楽しいので使っていきたい。

誰かの頭の中をそのまま見てるような気がする本、他人へ説明する為に変換される前の言葉を繋げて物語の体を成したものはあまり知らない。冒頭にそういう文章を並べて読者を引き込むというのは案外よくあるのかもしれないが、『最初の悪い男』を読み始めて最初に連想したのはキャサリン・ダンの『異形の愛』だった。

「ママがギークだったころはな、夢っ子よ」とパパは言ったものだった。

から始まる小説。夢っ子って何?ママを指してるなら江戸っ子口調なのはキャラ?パパに話しかけられてる人を指してるとしたら、〇〇よって偉そう。夢っ子?と混乱した。
上の文には「ママの首ちょんぱはそれはそれは見事だったから」と続いていくのだが、理解しようがなくてとりあえず読み進めるという経験を初めてした本だった(ちなみに「夢っ子」は確か子供たちにパパが付けた愛称だった)。内容はあまり覚えてないけど、圧倒されるような面白さがあった気がする。町田康の小説にも、何かそういうのがあったような気もする。

とりあえず理解は置いておいて、まず書かれている者の感情を把握しようとする。読み進めて慣れると、無理に理解しようとも思わなくなっていくのが面白い。結果理解できることもあるし共感を覚えることもあるが、もしそれらがなかったとしても「そういう風に生きてるんだ」と自分の「生き物引出」に仕舞うことができるのでよい。ただ説明のない文章に慣れると、ただ理解を求めてくる文章が鬱陶しくなったりもする。

現実はそうでなかろうが、全然構わない。現実とリンクする時もたまにあって、実際に生きることを楽しんでいるのであれば、妄想で全然構わないと思う。でも現実に対処するための妄想や空想世界の構築というのは、しばしば「そうでなければならない」思い込みと結びついて、周りの生き物を傷付けまくる存在になってしまう。そういう人も大概悪い人ではないのだろうが、周囲から距離を置かれてしかるべき害である。
だから「私は今こういう状態で、こういうことを考えています」と他人に伝える為に、言葉を尽くすということも必要なんだろう。もし内容が他人を傷付けるものだったら批判され、批判されたら内容を省みるという繰り返しに努めることが、いわゆる楽しい社会生活に繋がるのだろうし。意思表示の容易な健常な大人ならまだよいが障害のある人はどうなのか。幼児は、老人はどうなのか。自分の来し方にも意思表示が難しい、できない時間はあったし、行く末にもあるだろう。著しく弱ったりする可能性もある。だから意志表示が難しい人の希望や考えを理解して共有しようとするのは、今しかできない大切な研究なのかもしれない。

子供ができた時、どうやって子供にこの世界のこと、社会のことを伝えようか考えて一旦途方にくれた。虹はなぜあんな風に見えるのかすら、わからせる自信がない。自分はどうやって教えてもらってきたのか考えて、結局その時は、世界についての知識は一緒に勉強する、社会でのふるまいは自分がされて嫌なことは他人にしないとか、基本ルールだけ教えて、あとはその場その場で対応するかあなどと呑気に考えていた。幼児の育て方について、現在幼児を育ててる人の記事の中では下田美咲という人が筋の通った考えを実践しているようで更新される度に読んでいる。→幼児に「人間らしい生活」を教える必要なんてない
「よそ」と「自宅」で振舞いが違うことを教えた方がいい。大人もそうしてるんだから。なるほどそうだなあと思う。この世界への知識がなく、自分の思い通りに動いたり、意思表示ができず苦しんでいると想像すること。そういった幼児への寄り添い方が自分事で素晴らしい。その余裕を持つために、また色々工夫しているみたいだ。

妻のゆかちゃんは最近、脳性麻痺低酸素脳症になった子供たち、大人たちのお世話をするバイトを始めた。自分も話を聞かせてもらいながら、その子たちがどんな世界を生きているのか知りたい。苦痛を訴える、喜びを伝える、そういう意思表示は言葉でもしぐさでも音を出すでも、とても大事だな。とりあえず生存には問題ない健常者がする表現との違いはなんだろうかと思うと。やはり生身の自分から離れた言葉やふるまいというのはつまらない。そしてカッコいい自分とか、意味のある自分とかにこだわるのは、さっさとやめた方がよくないかと思う。全ての生き物は意味も無くマヌケなものだと思うので、意味も無くマヌケに生きていく自由にこだわりたい。こうすべきとか、答を押し付けてくるものは野蛮でつまらないし、街やネットで遊んだり実験してる陽光さんとか、本当に面白い。

幸いこれまで素の自分というか、恥ずかしい所を見られる機会は沢山あり(主に酒やうっかり)それでも変わらない人たちに安心したり、大きく態度を変える人たちに謝ったりしながら、恥ずかしいことが当たり前になっていったので、他人の失敗も大概は許せると思う。自分の常識が通じなくてどうしてくれるんだとかいう人は、自分の常識を見直せばよいだけのことである。非難されるのは自分の常識を他人に押し付けていたからで、そのことを恥じて申し訳なく思えばよい。皆もともと恥ずかしいもんなんだからマヌケでも大丈夫だって。と言いたい。まあ言ったら大概怒られるんだけども。

しかし今回も長すぎて辛い。ゆかちゃんは早く阪神戦のハイライト観ようというし、大体内容が大き過ぎるのだと思う。文章も乱視気味だ。先日家に来た友達の赤子に二の腕を吸われた時の話とか、最近夜中になるといなくなるおひとりさまツバメの丸ちゃんには恋人ができたのかもしれないとか、そういう話だけ書いていればいいんだ。俺が格好つけんなと思うが、意志表示したかったんだとも思う。マヌケである。

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他人の思い出深そうな渡り廊下