いのちという名の菓子もある

生き物には不思議なところがある。当人は知らない内に生き始めていて、後から生きてるとはどういう事なのか、知識として知るようになる。でもその知識は限定的なので、生きているとはどういうことか曖昧なまま、でも自分は生きていると死ぬまで思っている。生き物から生まれたものは、周囲にも生き物と認識されるので、少なくとも生き物として取り扱われる。生きているというのは感じることであり、こだわることである。こだわりを持たないことは、死んでいることに等しい。それを周囲に証明する方法は表現しかない。

先日、本とぬいぐるみを集めている作家の、自宅についての記事を読んだ。その中で「ぬいぐるみは生き物だ」とさらっと書いていた。わからない人にはわからないが、わかる人にはわかる話だと思う。妻にはわかる。子供の頃からぬいぐるみが好きで、今もぬいぐるみだけでなく生き物の形をした、かわいいものたちと生活している。結婚を機に自分もかわいいひとたちと話したり遊んだりするのが日常になった。自分には元々執着がなかったので、これがどういう事なのか考える機会にもなった。遊ぶ時や話す時、かわいいひとたちと触れる。手足を動かしたりとびはねたりしながら、かわいいひとたちとして考え、意志表示をしたりする。それぞれの趣味嗜好や、表現の方向性、ほかのひとたちとの関係性、などがある。また妻と自分の生活の変化にも関わってきたりして、家族としての時間が累積していく。

証明はできないが自分もかわいいひとたちは、生きていると思っている。もちろんベースには妻と僕の意図や性格が影響しているが、生き物が生き物として扱う物は生き物なのである。扱われる物が自分は生きていると思うかどうかは別だが、生き物として扱われる経験が増え、情報が集積される場所が、汚れや変形などを通じてもしできてきたとしたら、表現しなかったりしてもこちらが理解できなかったりするだけで、そう思っているかもしれないと思う。

アニメーションの語源がラテン語の命を与えるものだった気がする。市原悦子は人や獣だけでなく、石でも神でも野菜でも、色んな物として話してくれた。まずは自分事として想像してみること、それから物語に色どりを与える個性を創造していくことで、観る側に生きているように感じさせることができる。むかし映画学校で教わった「脚本を書く際、登場人物には自分と同等の知性と感覚を与えなさい」ということを思い出す。それがないものは生き物として感じられないのである。
「僅に三十一文字を以てすら、目に見えぬ鬼神を感ぜしむる国柄なり。」とは斎藤緑雨の言だが、生きているかどうかということに鈍感ではいられないというのは、どこの国の人でも同じだと思う。

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ぶどうが届いた

3万冊の蔵書と、4000匹のぬいぐるみ…新井素子の「捨てない」暮らし(婦人公論.jp) - Yahoo!ニュース

クズと仏性

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edogawa
生きるのは楽しむためだから、楽しくないなら何か変えなければいけない。手っ取り早いのは自分を変えることで、自分を変えたいなら環境を変えるしかない。

環境を変えることで、意識のライトが自分を照らす場所が変わる。自分の中には天才/凡人/賢い/愚か/変態/真面目/傍若無人/弱気/得意/不得意/好き/嫌いなど、いろんな分け方ができる部分が混とんとしてあり、環境を変える事で違う部分にスポットが当たるようになる。

環境を変えるといっても引越や移動だけじゃなく、習慣を変えるだけでもかなり環境が変わる。何か学んでみるとか知り合いを作るとか、真面目や大変なことでなくても、とりあえず思い付いたら行動に移すとよいと思う。

子供の頃、父には「思い付きで行動するな」とよく怒られた。でも思い付いたら、衝動が消えない内に他人に迷惑かからないかなど考えて、かからなければ即行動に移せばよい。時には迷惑がかかってもよいのだと、経験から知った。思い付くこと、思い付くようにしていることの方が、楽しむためには大事だと大人になってからよく思う。

妻のゆかちゃんは介護の学校に通い始めて、元々優れていた役者の表現力というか他者との関わり力が、とても有効に活用されているようだ。さらに過去現在未来すべての生き物を慈しむ菩薩みたいな変わった適性も、実践の中で輝き始めていてすばらしい。夫は妻の話を聞いているだけである。

同じ場所にいても、やることを変えると頭の中の環境が変わる。でも同じ場所で同じことをやり続けてると腐る。ちなみに凄腕の職人などは傍目には同じことやってるように見えて、当人は毎回違うことをやってるように感じていると思う。他人には意味がなくても自分には意味がある。

遊びとは新しい経験をするために実験することだ。自分にとって新しいことを実験し続けていれば毎日楽しくなるはずであり、そこに思想などない。他人を傷付けたりしてなければそれでよい。それがわかる頭とセンスさえ残っていればよい。

山下陽光さんは0円の服屋をやったり、飲食店に百円玉を隠したり、遊びとして大なり小なり社会実験を繰り返している。生活自体が実験と遊びに溢れているが、行動に移す前の思考がしっかりしていて、他人にもわかりやすくてすごい。面白いので本も書いてるし、現代美術館で展示もされている。知らない人は是非検索を。

楽観、理由もなく自分が長生きしそうな気持が減ってきている。すぐにでも死にそうというわけではないが、例えばオリンピックがあると思うと憂鬱で、来年は日本で生きていたくないなと思う。だから環境を変えなきゃと焦る。焦るのが何より嫌いなのに焦る。

人とのつながりを沢山持てないと、この先生きていけないような気がする。ただ複数の人が作る「場」に参加するのは苦手だ。他人のためになることをするのに面倒だと感じたことはないので、個人間で関係性を作ることはできるが、その場の空気やルールを守るのが苦手で、酒乱だったりもするので、長くいる程にぶち壊して他人を傷付けてしまう。場に属せない。

よく優しいとか仏とか言われるが、要は自分がクズだとよく知っているだけのことだ。この先も楽しく生きていくためにどうするのか、考えて実験していかなきゃならない。そんな人間がよく結婚できたな、やっぱり妻はすごいなとも思う。流水不腐、和而不同。

効かないハッシュタグ

戦争は他者への暴力の正当化であり、政治の失敗であるとともに人間性の否定である。人間性とはいえ、人は弱さやくだらなさを抱えているものなので、暴力に走らさせないような環境が必要だ。社会的には暴力や差別を助長するシステム、またホモソーシャルな関係性の解体が、個人的には他者からの影響や欲望について自分を見張っていることが必要なのだと思う。

#表現
あいちトリエンナーレの件。自分や他人が暴力の正当化に向かってないか、都合のよい妄想に逃げてないか。表現とは、そういうことを確認できる機会なんだなと強く認識させられる。「まさかあの素晴らしい仕事をした人がそんな発言をするとは。。」みたいなことが、主にSNSだがそこかしこで起こっている。右傾化して死んだ自分の父親の話も誰かが書いていたが、知らない内に悪意に影響され妄想から逃れられなくなってたということは、誰にでも起こり得ることだ。安定した環境で老いると、頭が固くなる。だからという訳ではないが、みんな表現して確認し合おう、みたいな気持ちにもなる。わしボケてないか?と。ウザいかもしれないけど

#権力
あまり持ったことがないのでわからないが、他人の生活に影響を与えるような力を持つと、人は多かれ少なかれダメになると思っている。権力は頑張らねば(頑張っても)手に入らないだろうし、頑張って手に入れたものは守ろうとするんだろう。
保障であれサービスであれ生活に関わるシステムというのは、人はそもそもしょうもないということに加えて、権力を持つと人はダメになる、という前提でなければならない。中の人は死んでもシステムは生きていく。とりあえず後から生まれたものが損をするようなシステムは間違っていて年金返せこの野郎。

山本太郎は、現在のシステム改善に動いていてナイスである。街頭演説などで見る主張や提案がとても良い。「生活保護をバラで受けられるようにしよう」ナイス。すばらしい。でも彼も政権をとったら、ダメになるかもしれないとは思う。組み込まれる前にシステムが少しでも改善されたらいいなと思う。

権力の監視なんていうと大仰に聞こえるが、そもそも人は弱いしみんな死ぬ。個人が権力を担える期間は限定され、変えられてはいけないし、変えられないように監視するのが有権者の義務だろう。面倒くさくても仕方がない。これから生まれるものの為に、より良いシステムを残すのだ。その為に権力の監視が要るのだ。

#生物
ちなみに生き物は楽しむ為に生きてるんであって、子供を作るために生きてるわけではない。全体として新陳代謝は要るだろうが、少なくともさらに増える必要はない。子供を作るのは色々と条件が必要だしタイミングが合えば作ってもよい程度のことである。

どこにどう生まれてくるか自分では選べず、これからどう変わるのかも判らない。それでもなんとか現実を受け入れて生活を頑張っているのだから偉い。みんな我慢することない。楽しむことが正しい。もちろん暴力は他人の楽しさを奪うのでいけない。俺は何当たり前のことを言ってるんだ

どう変わるか判らないと書いたが、事故や病気で身体障碍者や精神障碍者になるかもしれないし、老いたら寝たきりになるかもしれない。介助や介護までいかなくても、人の力を借りなければ生きられていない。社会的弱者、全く自分事であり税金は弱者のために使ってください。

先天的な障碍者も社会的弱者と言われる。彼らの様子に健常者は衝撃を受け「かわいそう」などと口にする人もいるが、それはただ自分の認識の狭さを露呈してるに過ぎない。自由意志を自分一人で実現している人などいない。意思表示が難しい人もいるが、表現ツールの開発さえ進めば意思表示の難易度は下がっていくわけで、あとは健常者側の無知の問題である。そもそも他人や健常者にわかる表現をしなければならないわけでもない。

障碍者は健常者より賢い。もちろん知性もグラデーションであっておバカな人もいるだろうが、障碍者の世界と健常者の世界の両方を知ってる分賢い。限られた時間の中で、この世界の理解や楽しむことよりも経済を優先し、欲望をコントロールしようとしてきたり、現実から目を背けさせようとする、恣意的な健常者の表現や情報は不要である。純粋に生きることを楽しめている時点で賢い。知性は表現されなくてもある。もし楽しめてなければ、システムの改善が要る。

障碍者のことは、妻のゆかちゃんが支援施設で働き始めて前より身近になった。仕事から帰ってきたゆかちゃんの顔がいつも輝いているのは、彼らの純粋な表現に癒されているからでもあると思う。

#欲望と表現
欲望のコントロールは、持続可能な社会に不可欠なものだ。個人でできることといえば、まずは人間の欲望や好奇心が全方位に向いていることを自覚して倫理とか考える前に、経済で利用されていることを意識してみるとよい。経済活動に関する事、自分がしてる仕事も全て欲望に関わっている。食欲や性欲がわかりやすいが、全ての快不快や気分まで経済に利用されようとしている。そうはさせないぜ、と思う。意図や狙いを意識すると踊らされたくないぜとなる。日頃目にする情報の中には発信者がいないものもある。ただそこにあるものから観察者が読み取る情報を、もっと大事にしたい。意味のなさや目的のなさを守りたい。

それから嗜好品や習慣の中毒性や強制力など意識していくと、グルメ&ダイエット、オナ禁、禁酒、禁煙など、自分の欲望や外側からの影響に対して、向き合うことが平和な暇つぶしになっていく。欲望そのものを滅却したつもりになっても生きてる内は何かしらしたくなるもので、そこからまた見えるものを表現していけば、誰かがほほおと思うわけで、そこに特に意味はないけど、楽しい。

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月と電線 #でメロス

楽しいと悩ましい

しばらく書いてないとただの経験や思いが積み重なって編まれないまま重くなる。重くなると意味が無いのに意味があるような気持ちを持ち続けることになり、苦しい。脈略のないものは脈略のないまま一枚ずつ並べるように書き出すと、余計なものが付きにくくてよい。

外にネズミが食べ物探しに出てきた。こちらには臭いや音で気付いているが、網戸越しに目が合っても逃げず、家の足元をうろうろしている。前にピーナッツを穴に投げたり、雨の日に鳴き声を聞いて「見つかるよ」と話しかけたり、出てきてもただ見ていた人だと覚えているのかもしれない。チラシ投函人の足音で、また穴に入っていった。

意識しなかったり場所を忘れてしまったりするだけで、全ての経験はきっと覚えているのだと思う。だからひどいものを目にすると腹が立つのだろう。食べ物も味も音もにおいも文字も運動も感情も情報。命に関わるような重要なものはDNAに組み込まれるのかもしれない。だが風呂で垢と一緒に流れていくような、大半の情報も愛おしい。だから楽しい。

中村佳穂の最近のライブ映像がYouTubeにあったのでSNSでシェアした。流してみるとMCと歌の境界が曖昧だった。彼女のことはスティーヴ・エトウさんのfacebookを見て知り『AINOU』というアルバムも買っていた。改めて何がよいのか考えてみると、声やピアノの弾きこなし方はもちろんよい。でも何より初めて会った人と即興でやってできた曲を、完成形としてアルバムに入れてしまうセンスがよいと思う。また、使い方が合ってるかはわからないがエモい。

「みんな同じ辛いのよ。」 そうやってあの子は慰めますが 私の気持ちが見えるのかい それならどうして 遠い遠い向こうには 僕より苦しい人がいて それならどうして 分かっているのにどうして(中村佳穂『忘れっぽい天使』より)

『アイアム主人公』という曲もある。今の気持ちをそのまま曲にしてる感じ。気持ちは変わっていくが瞬間を爆発させたような楽曲はエモく、未完成のまま踊り続ける娘を見ているような気持ちになる。『夜のダンス』という曲が好きなのだがその曲に限らず、彼女はいつも踊るように歌っている。

美容室でシャンプーしてもらう度にこんなことまでしてもらって申し訳ない気持ちになる。自分は他人に気持ちよくしてもらって当然の人間などと思いたくない。でも好きでやってると思えたら有難いとだけ感じるのかもしれない。もし好きな人だったら気持ちよくなってほしいと思う。やはり自分は一部の人間を除いて好かれる人間ではないと思っているらしく、だから自尊心は低いのかもしれない。こういうこと書く事もエモいと思うのだが、使い方は合っているだろうか。つか仕事だし、て話でもある。

今の社会では自分の欲望と執着を殺して、我慢するのが大人だと思い込んでる人が多過ぎるようだ。勝手に思い込んで溜めたストレスを暴力の形で吐き出していて、自分の家庭や移動中の車内や飲食店での被害が止まない。理不尽を我慢させられてるだけではないか注意しなければならないし、欲望の満たし方についても考えなければならないと思う。日曜は選挙だ。

昨夜食べ残していたポテトチップスのりしお味を茶碗にあけ、箸で食べていた。いけないと思いつつ、残った5mm~1cmの破片を網戸を開け外に撒いてしまった。今みたらダンゴムシが食べていた。撒いた時はお腹空いてるだろうとしか思ってなかったが、こういうことをしているといつか油断したネズミが留守の間に出てきて、たまたま誰かにみつかり、よかれと思って殺された姿を目の当たりにする可能性も高くなるかもしれないと思う。だから悩ましい。

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左巻きの蝸牛

マヌケ

虫や人以外の動物を見ると、小さなものたちは食べたり食べられたりしているし、大きなものたちは遊んだり漏らしたりしている。野生から離れて生きられていると、生命維持とは関係ないことをし出すのが生き物で、人も同じだと思う。

山下陽光さんの牛丼ラジオがきっかけで入手したミランダ・ジュライ『最初の悪い男』妻が読み終わったので読んでいる(最初ミランダ・カーと書いた)。主人公の頭の中がそのまま書いてあるような文章に共感する。
中身は自分が考えることとは全然違うし、何故そう思うのかは一切書かれてないが、連想や想像が炸裂してるところ、正直であるところ、何かが起きる度に変わりながら、こだわりや癖は変わらないところがよい。
意識は複数の異なる情報を同時に処理する為に生まれ、主に生存の為に使われていると思う。でも大半は生存と関係ない事を考えてるし、瞬間瞬間に立ち上がる意識は決して論理的には繋がってない。PCの基本ソフト(OS)だったら間違いなく故障だが、表向きには概ね問題なく見えるんだから、生きてるって意味がわからないし雑だ。一緒だなあと思ったわけである。
まだ読み終えてないがさらにこの主人公は、妄想と現実を分けずに生きて何の祖語も感じていないし、妄想を現実の対処に意識的に使いながら、無意識に妄想の暴走に晒され普通に困っているところもよい。「みんな大人のゲームをしているんだ」という考えは楽しいので使っていきたい。

誰かの頭の中をそのまま見てるような気がする本、他人へ説明する為に変換される前の言葉を繋げて物語の体を成したものはあまり知らない。冒頭にそういう文章を並べて読者を引き込むというのは案外よくあるのかもしれないが、『最初の悪い男』を読み始めて最初に連想したのはキャサリン・ダンの『異形の愛』だった。

「ママがギークだったころはな、夢っ子よ」とパパは言ったものだった。

から始まる小説。夢っ子って何?ママを指してるなら江戸っ子口調なのはキャラ?パパに話しかけられてる人を指してるとしたら、〇〇よって偉そう。夢っ子?と混乱した。
上の文には「ママの首ちょんぱはそれはそれは見事だったから」と続いていくのだが、理解しようがなくてとりあえず読み進めるという経験を初めてした本だった(ちなみに「夢っ子」は確か子供たちにパパが付けた愛称だった)。内容はあまり覚えてないけど、圧倒されるような面白さがあった気がする。町田康の小説にも、何かそういうのがあったような気もする。

とりあえず理解は置いておいて、まず書かれている者の感情を把握しようとする。読み進めて慣れると、無理に理解しようとも思わなくなっていくのが面白い。結果理解できることもあるし共感を覚えることもあるが、もしそれらがなかったとしても「そういう風に生きてるんだ」と自分の「生き物引出」に仕舞うことができるのでよい。ただ説明のない文章に慣れると、ただ理解を求めてくる文章が鬱陶しくなったりもする。

現実はそうでなかろうが、全然構わない。現実とリンクする時もたまにあって、実際に生きることを楽しんでいるのであれば、妄想で全然構わないと思う。でも現実に対処するための妄想や空想世界の構築というのは、しばしば「そうでなければならない」思い込みと結びついて、周りの生き物を傷付けまくる存在になってしまう。そういう人も大概悪い人ではないのだろうが、周囲から距離を置かれてしかるべき害である。
だから「私は今こういう状態で、こういうことを考えています」と他人に伝える為に、言葉を尽くすということも必要なんだろう。もし内容が他人を傷付けるものだったら批判され、批判されたら内容を省みるという繰り返しに努めることが、いわゆる楽しい社会生活に繋がるのだろうし。意思表示の容易な健常な大人ならまだよいが障害のある人はどうなのか。幼児は、老人はどうなのか。自分の来し方にも意思表示が難しい、できない時間はあったし、行く末にもあるだろう。著しく弱ったりする可能性もある。だから意志表示が難しい人の希望や考えを理解して共有しようとするのは、今しかできない大切な研究なのかもしれない。

子供ができた時、どうやって子供にこの世界のこと、社会のことを伝えようか考えて一旦途方にくれた。虹はなぜあんな風に見えるのかすら、わからせる自信がない。自分はどうやって教えてもらってきたのか考えて、結局その時は、世界についての知識は一緒に勉強する、社会でのふるまいは自分がされて嫌なことは他人にしないとか、基本ルールだけ教えて、あとはその場その場で対応するかあなどと呑気に考えていた。幼児の育て方について、現在幼児を育ててる人の記事の中では下田美咲という人が筋の通った考えを実践しているようで更新される度に読んでいる。→幼児に「人間らしい生活」を教える必要なんてない
「よそ」と「自宅」で振舞いが違うことを教えた方がいい。大人もそうしてるんだから。なるほどそうだなあと思う。この世界への知識がなく、自分の思い通りに動いたり、意思表示ができず苦しんでいると想像すること。そういった幼児への寄り添い方が自分事で素晴らしい。その余裕を持つために、また色々工夫しているみたいだ。

妻のゆかちゃんは最近、脳性麻痺低酸素脳症になった子供たち、大人たちのお世話をするバイトを始めた。自分も話を聞かせてもらいながら、その子たちがどんな世界を生きているのか知りたい。苦痛を訴える、喜びを伝える、そういう意思表示は言葉でもしぐさでも音を出すでも、とても大事だな。とりあえず生存には問題ない健常者がする表現との違いはなんだろうかと思うと。やはり生身の自分から離れた言葉やふるまいというのはつまらない。そしてカッコいい自分とか、意味のある自分とかにこだわるのは、さっさとやめた方がよくないかと思う。全ての生き物は意味も無くマヌケなものだと思うので、意味も無くマヌケに生きていく自由にこだわりたい。こうすべきとか、答を押し付けてくるものは野蛮でつまらないし、街やネットで遊んだり実験してる陽光さんとか、本当に面白い。

幸いこれまで素の自分というか、恥ずかしい所を見られる機会は沢山あり(主に酒やうっかり)それでも変わらない人たちに安心したり、大きく態度を変える人たちに謝ったりしながら、恥ずかしいことが当たり前になっていったので、他人の失敗も大概は許せると思う。自分の常識が通じなくてどうしてくれるんだとかいう人は、自分の常識を見直せばよいだけのことである。非難されるのは自分の常識を他人に押し付けていたからで、そのことを恥じて申し訳なく思えばよい。皆もともと恥ずかしいもんなんだからマヌケでも大丈夫だって。と言いたい。まあ言ったら大概怒られるんだけども。

しかし今回も長すぎて辛い。ゆかちゃんは早く阪神戦のハイライト観ようというし、大体内容が大き過ぎるのだと思う。文章も乱視気味だ。先日家に来た友達の赤子に二の腕を吸われた時の話とか、最近夜中になるといなくなるおひとりさまツバメの丸ちゃんには恋人ができたのかもしれないとか、そういう話だけ書いていればいいんだ。俺が格好つけんなと思うが、意志表示したかったんだとも思う。マヌケである。

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他人の思い出深そうな渡り廊下

低気圧

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放課後の校庭で球投げ
運動不足のせいか、最近眠りが浅い。夜中に何度もトイレに起きる事もある。ノコギリヤシは飲まない。(加齢について→何度もトイレに起きる時は寝る前に酒を飲んだりしてはいるが、何度もする度に律儀に沢山オシッコが出ていくので問題ないと思っている。体が寝てないだけだ。30代の見た目はほぼ「若い」と言われて過ぎようとしているが、あと2年ある。20代から耳の後ろや後頭部の汗腺の質が変化したのか、古い油のような匂いがする。これをどっかのメーカーは「ミドル脂臭」と名付けていた。それ用のシャンプーを買ったり、ひどい長髪だったのが妻と付き合うことを意識して行った散髪屋で発泡性シャンプーを買ったりしていたが、まあどうしようもなく、気を抜くと顔や鼻の中にまで脂がコーティングしてくる。これはもう時間をかけて出し切るしかない。更なる加齢を待つだけなのだが、その間にできる事としては定期的な洗髪と、起きてる間も汗をかく度に拭ったり流したりしている。寝てる間の脂は枕カバーに付いているが、不思議と悪い匂いではないようで、妻も寝ながら顔をうずめたりしている。枕カバーやタオルはうしじまいい肉さんが言っていた通りせっせと洗っている。坊主頭は嫌だと言われているので毛を伸ばしてはいるが、今朝仕事をしながら頭をかいたらぱやぱやと数本抜けて、これは6号機の白煙の影響かななんて思ってみるがただの抜け毛である。最近はお昼に近所のディスカウントスーパーのクソ安い総菜パンや弁当、激辛冷凍タンタンメンなど食べてはドクダミ茶を飲んで毒素を出した気になっている。出ているのかわからないが、うんこは出る。本当に具合が悪くなったらその類の暴食はやめるが、まだそれくらいの健康状態ではある。38歳という字面はドクダミの叢のようだ)

今はほぼ在宅でPCの前に座りっぱなしだが、昔から必要なことに体を使うのが好きなので、日中はもっと家事がしたい。掃除洗濯炊事の他、風呂場のドアを直したい。あとは要らない物を捨てたり要る物を設えたりするくらい。要る要らないには話し合いが必要で楽しいけど時間がかかるのであまり頻繁にはできない。外で畑仕事もしたいが畑がないので家の周りのドクダミを刈って茶を作るくらいである(梅雨の晴れ間に2度目の採集)。日暮れまで体を動かして夕方には縁側でビールでも飲みながらぼーっとしたい。それを自分の家でしたいのだが、広い屋敷も縁側もない。
旅先や帰省先でなく、自宅でそれがしたいというのは、自分にとって理想の日常だからだ。自宅が宿屋ならどうだろう。民泊が一般的になり、住居を宿泊先に提供する人は増えている。だが今の家にはプライベート空間しかなく貸せない。というか賃貸アパートで大家は別にいるので契約上も貸せない。自宅を貸せば理想という訳ではないがとりあえず自宅が無理なので、できるだけ近くのそういう所に働きにいくしかない。だが毎回違う場所に出かける日雇いは飽きた。一般的な体を使う仕事はマニュアル化されていてつまらない。思い付きで頭や体を使えるところがいい。適度に人の出入りがある場所を保つために必要な事をしたい。旅館などは知らない人しか来ないし、農家には知り合いしかいない。あとまだ今の仕事をやめるわけにもいかない。なかなか塩梅が難しい。

シェアといえば民泊のような持ち家のシェアもあるが、今では自転車も自動車も、観光バスまでシェアされている。料理人も出張する。出前はUberで、運ぶことに労力と時間を提供する人も増えているようだ。最寄のスーパーやコンビニに「うちの冷蔵庫」というイメージを持つように、旅館や劇場を「うちの別荘」「うちの宴会場」と思ってみる時、この「うち」というのは個としての自分が存在し得る場所ということになる。どこでも「うち」と思うようになると、場を大事にするようになるかもしれないが、実際によそに出かけた時は他人の場所として失礼のないように存在してきた。だが本当にそうなのだろうか。(所有について→ヒゲタ醤油がうまそうと思うのは何故かは謎だが、所有というのは幻想だ。自分の体すら自分が所有しているものではない。自分という意識が生まれる前に与えられた体を、管理人として死ぬまでの運用を任されているだけだ。社会上の契約は約束事に過ぎず、場合によって反故にしてよい。その場合をどう考えるかで人格が問われたりはするのだろうが、無理な物は無理だ。基本的に世界にあるものは誰のものでもないと思う。ちょっと借りてますという感じで、できるだけ楽しく生きようとするのがよい。他人の借りる権利を侵害したり奪ったり、さらには壊してしまうなんてとんでもない。皆互いに誰のものでもなく、たまたまいきあった人が同じ時間や空間を、死ぬまでの間シェアしてるだけである。)

5歳。ビックリマンチョコの食べ過ぎで肥満になる2年前。保育園に通い始めてバカな人生が始まったのだが、それまでは町内の家々を渡り歩くのが日課だった。5歳では行動範囲に限界があり、近所のおじさんおばさんの家が精々だった。顔を出して家の中を歩き回りお菓子とお茶を頂いて遊んでよい所で遊んだり、話をして帰る。それが許されたのは町内会の交流があって顔を知られていたのと、5歳児が社交性をみるみる磨いていったからだと思う。違ってたらごめんなさい。だが小さい頃にそう過ごしてきたせいか、他人の家や部屋、パーソナルスペースにお邪魔しながら生きてきたようなのが自分の核になっている気がする。先々で必要なことをするみたいな感じだ。自分の家というものが固定化したのは、妻と結婚して一緒に住むようになってからだ。他所の家でも楽しいが、何の気兼ねもなく過ごせる「我が家」を一緒に作っていくのもよいものだと知った。

38歳。在宅でPCの前で仕事をしている。誰も知らない場所でじっとしているのも好きだが、それは趣味だ。必要に応じて体を使うには他人や場所が欲しくなる。パーソナルスペースと他人と交流する場所と話がいったりきたりしているような、そうでもないか。とりあえず髪の抜ける頭を掻きながら思ったのは、自分の家のように感じる広いスペースに他人が行き来したらどうかということだ。理想に近かったのは、リニューアル前の綱島温泉。日当たりのよい広いスペースと温泉とうまくて安い食事、宴会場では音楽や舞踏ライブがあってとてもよかった。友達を連れて遊びに行ったある日、飲み過ぎた自分は全裸で共有スペースに出てしまい、大変申し訳ありませんでした。総菜を作っている人たちの仕事しに来てる感じや、宴会場でイベントをやるミュージシャンやダンサーやデザイナーの人懐っこい感じもよかった。浴場のトイレからバス乗り場が見えるのもよかった。

娯楽や美味しいご飯の他にも、介護や保育、学童保育もまかなえるスペースならさらに良い。老人介護と保育所を一緒にしたらすごくうまくいったという話もある。社会の問題は孤立から起こるのだと思うし、特に日本人は他人の目を気にするようだし、ある程度は色んな年代の他人と同じ建物内にいる方がよさそうではある。だが人が交流する場では、必ず他人を自分と同化しようと振る舞うやつが出てくる。だからルールは「和而不同」である。自分と他人の違いを違いのまま気にしない人でなければならない。特別な人などいないが、同じ人もいない。問題を起こしてイニシアチブを握ろうとするような人は放り出す。これは頭も体も使えてよい。自分は壁に球を投げたい(役立たず)。所有の概念がただのお約束だと思えたら、助け合いは当然にならないだろうか。そして夜にはプライベートをしに家に帰る。そう簡単にはいかないんだろうが、無理な話でもないのではないか。健康でどこにでもいける人は好奇心の向くままに移動して帰ってきたらいいし、そうでない人にはその人が存在する場所で楽しくなるように協力する。そういう施設ですなんて言わずに、集まった人達の中で自然に問題を解決していければいい。難しいかもしれないが、いつかそういう場所だらけになったらいいなあと思う。家族というのもそういうものだとも思うし。少なくとも血縁は関係ない。一体何の話だ。自分は壁に球を投げたい(役立たず)。

色々まかなえる場所があったとして、生きていて楽しいこと、必要なことが全て揃っている場所なんてものはない。町単位だとなんとかなるかもしれないが、個別に目的にアクセスするだけではつまらない。交流というか、他人に生きて見せられる場所がいい。ネットでもそういう関係がいいと思う。5歳の自分は町内会が精一杯だったが、38歳現在ではそれなりに範囲は広がっている。好奇心の動くままに行動できたら楽しいだろうが仕事はあり、約束はあり、家族があり、年相応に老いて疲れてきてもいる。どこも「うち」だという感覚は同時に、どこにも行かなくてもいいやという気分にもさせる。台風3号が明日の朝には発生するらしく、妻はお菓子を食べたがぐったりしている。これはどうしようもなくて、彼女の体の構造や、自然現象の影響なのである。自分はワインを飲んでいるので、歯を磨いてもきっと臭いと言われるのである。

伝える

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妻の誕生祝でうちに来た、うさこちゃん

日没前後に住宅街を歩いていると、夕餉の匂いや音がしてくる。自分が死んだ後も同じような匂いがしてるんだなと思うと、切ない気持ちになる。その切なさを「未来郷愁」と呼んでいたのは上京して間もない頃、酎ハイ片手に知らない町を歩いていた頃である。夏の家賃が安い一帯では稀に情交の音も聞こえてきて立ち止まりそうになり、慌てて酎ハイを飲んで誤魔化すような頃だった。また自分が生まれる前にも、同じ匂いや音がしていたんだなと思うのも切ない。郷愁というのは意識が向いた時に想像によって起こるものである。別の切なさでは、今全力で生きて見せられた瞬間などもあって、それは取り返しのつかなさに震えるようである。どんな切なさにせよ、生きるということに密接な感情なので好きだ。

切ないのは死ぬからである。いつ死ぬかはわからないが、必ず死ぬ。あ、死ぬじゃねえかと思うと何かを伝えなければと思う。自分が死んだ後に生きる人たちに、自分が生きて感じたことや経験を伝えたい。何かは、具体的に生きていく方法だったり、方法までいかないただの実例だったりする。それは子供がいてもいなくても変わらない。せっかく生きたのに、もったいない。

先日伊集院光の朝のラジオにゲストで佐渡島庸平という編集者が出ていた。作家のエージェントとしてより面白い本を作ろうとしている彼の話は面白かった。彼が携わった『ドラゴン桜』という東大受験の漫画は、作家が元々描いていた野球漫画における目的達成の為のメソッドや、若者が必至にがんばる姿は美しいと思う感性に共感した氏が、興味を持つ人数の多い大学受験に場を変えて生まれたものだという。すごいなと思ったのは、続編の『ドラゴン桜2』では前作を読んで東大に合格した現役学生を集め最新の受験メソッドを作ってもらい、さらに実際に高校生に直接教えたりしているということだ。リアル「ドラゴン桜」が実現しているというのである。氏は再現性のある形で言語化することが重要であり、情報を簡略化して再現することが肝だと言っている。※佐渡島庸平氏(株式会社コルク)にインタビュー

再現されるものは、作家の純粋な好奇心やワクワクが向くもの。それができれば、沢山売れるし、少なくとも友達ができる。今の世の中で重要視されるのは、友達がどれだけいるかだ。金があるかとか、SNSのフォロワーが何人いるかではない。極端な話、国が国民の面倒をみなくなっても(既に形骸化は進んでいるが)助け合える人がいれば生きていけるだろう。だから他人に伝えることについて、いつも考えている方がいいのである。相手や自分の状況によって伝え方は変わる。使う言葉や伝える順番、身振りや声のトーンから派生して歌や楽器、プレゼントや建物、カメラで写す被写体まで、あらゆるものが伝えるツールになる。そして伝える時、自分の感情をどう取り扱うかも重要だ。感情を整理する中で、自己同一視についても考えることになる。何に、何故、どこまで、自分は自己同一視して、感情を動かしているのか言語化した方がいい。近年話題になる家族や社会の問題も、当事者による言語化から始まったものだ。

だが感情の取り扱いは、整理してもしきれない。何かに仮託しても瞬間ごとに変わっていく。自分は感情の起伏が小さいというのもあり、今俺はこうなんだ!ぎゃー!というのも嫌いではない(むしろ好きだ)が、ちょっと寝かして他人事にしてから出したい。できるだけ私から離れて、ただ切ないという気持ちになったものを出したいと思ってしまう。格好つけなのかもしれないし、リアルタイムに未整理の感情を出すのが恥ずかしいのかもしれない。ただ、そこに自分がいる/いないが曖昧になった状態が一番好きなのは間違いない。酒の好きなところも、今ではそこだけである。切なさにこだわっていると、色んなものが切なく見えてくる。その中には自然や他人も含まれる。死ぬんだなあ、今は生きているなあと思う。

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いいなあ。

奄美島唄などを聴いていると、とても切ない。住宅街をうろついていた頃の自分にも近しく、家で仕事をしている自分にも近しい。それでどうしたということはないが、どんな時でも泣き笑いのような切なさが底にあるのだと伝えたい。それはきっとみんな一緒だと思う。理由は今、生きているから。