独りよがり

※現在はこちらで書いてみてます

私は今年39歳で、5年前の冬に結婚した。妻が私の妻でいてくれること、つまり自分と違う人がそばにいてくれるおかげで、ようやく自分も相対化して見られるようになった気がする。
私は友達が少なく、実家でも学校でも職場でも、個別の人間性まで話すことはなかった。喧嘩も殆どしたことがない。が、妻とはしてきた。彼女のおかげで、自分に正直になるということもわかってきたような気がする。

このあいだ妻に「あなたは独りよがりってどういう意味で使ってるの」と聞かれた。「あるがままの事実を無視して、自分の都合のよい解釈をすることかなあ」と答えた。すると「(独りよがり)に(あるがままの事実を無視)なんて意味はないよ」と言われ、自分が付け加えた意味だということがわかった。

文章にせよ発言にせよ、私の表現は意味がわかりにくいと言われる。
確かに、急にスイッチが入って語り出すと、聞く人の目が段々と死んでいくので間違いない。
一方で妻は哲学科出身で、大学を出てからずっと俳優をしている。彼女が言葉や事実の正確性にこだわるのは「他人に伝えること」に取り組んでいるからだ。きっと私が使う他の言葉にも独自の意味付けがされてるだろうから、意味がわからないのである。

そう言われて考えてみると、わかりにくい理由が他にもどんどこ出てきた。
沢山あるので一旦書き出してみる
・結論(オチ)がないから
・欲望(目的)がないから
・格好つけている(ダサい)から
3つしかなかった。沢山あると思ったのは、派生して出てきた理由だ。めんどくせえやつだ。
下の方でそれぞれ説明を試みているが、自分で自分を語ることほどつまらないものはない。
だがこれからも「わかってないくせに」思ったこと感じたことをどんどん書いていくと思う。そうしたものを前に大人は早々に「読まない」という判断ができるが、経験の浅い人や若者に不必要な誤解を与えるのは悪影響でしかないと思うので、前もって書いておきたいと思った。
自己紹介という意味では、すぐ下の段落にまとまっていると思う。

私はずっと無意味は無価値でないと思っている。
どちらも「誰にとって」というのが現実では関わってくる言葉だが
ここで言うのは、純粋に意味としての無意味、無価値である。
自分自身が大半の人にとって無意味な存在だなあと自覚しているからでもあるが、
何より無意味は、偶然の出会いを生むからだ。
意味が有っても無くても、何かをすれば何かが起こるのだが
一般的に意味がないと思われることをすると、偶然の出会いが起きやすくなると思う。
現実で起こる、必然と必然が出会う偶然というドラマにしか
価値を見出せなくなっているような人間なのである。
だから他人を傷付けることでなければ、衝動でよいと思っている。
やりたいという気持ちさえあれば、意味を見出せなくてもよいし
私自身偶然生まれたので、偶然を起こして死んでいきたい

まとまっていなかった。

私は既存社会にとって有用な人間ではないので、毒にも薬にもならない発信しかできないが、物理的条件の異なる一個人として経験から感じたこと、考えたことの共有には意味が有る可能性もあるし、理不尽や困難があれば助けを求めたいし助けられることはしたいと思う。そういう意味での情報提供はいとわず、危険の伴わない範囲で晒していきたい。

やっぱりまとまってないし、違う話もしてしまっている。

ここまで読んでどうしようかな、と思った人は
この後もこういう文章が続くということをお伝えしておきたい。
とても長い上にその内容も「私の言葉が伝わらない理由」なんて
どうでもいいにも程があるとは自分でも思う。
知り合いは読んでもらえたら多少はいいのかもしれない。

1.結論がない
もともと人間とはどういうものか、生きるとはどういうことかに興味があると思っていた。表現、社会、自分の内省から、人間の本質を掴みたい。だが、私が語る時に答を持っていることは殆どない。気になることに直面すると、それが何なのか考える為に語り始めてしまうのである。何かが気になっているのはわかっているのだが、それが何なのかはわかっていない。だからいつも仮定や問いでしかない。

だが、仮定であることは伝わらない。前置きが無かったからだ。更に「毛が抜けた」等、即物的な状態への言及をせずにいられない癖に加えて、例えば他者と共有している問題の要素と、本質についての問いが並列に語られたりする。わかるわけがない。前置け、と思う。特に問題について語る時には「解決されるかどうかについては案外どうでもいいと思っている」ということが、伝わらない一番の原因だと思う。妻に指摘されてその通りだと震えた。問題というのは人間の本質的な部分が明らかになる機会でもあるので、興味を持ってしまう。解決することには興味がないのに。友達が少ないわけである。

2.欲望がない
どういうわけか自分の欲望を直感で理解できない。また当たり前やマトモがわからないことにもコンプレックスを持っていた。そこで何か感じたり考えた時にはメモをし、後でそのメモを整理することで、それが何なのか理解しようとした。私的なものなので、省略される主語は大概の場合「私」である。「〇〇だから▲▲べき」と書かれていたとしても、該当するのは私に限った話だ。私がどう感じ、どう思ったかということに過ぎない。人間の本質に興味があるというのも、自分がなんなのかわかりたいという欲求からくることは疑いないだろう。

なぜ欲望がわからなくなったのかといえば、社会に出る前に「欲望は誰もいないところで出すもの」と思ってしまったからかもしれない。他人に迷惑をかけてはいけないからであり、かといって欲望自体を否定することもなかったようなのである。やがて独りの時間が減り、自分の欲望にも向き合えなくなった。何をしたいのか無自覚のまま、社会に出た罰なのかもしれない。

直面する現実には「こだわらない状態でいることにこだわる」という矛盾で乗り切ってきた。私が私であることにこだわらなければ、基本的には何でもできる。出会いに任せて何でもあり、できないことはできないけど、できることはできる。だが自分の欲望は自分が自分であることの根幹であり、何かを語る上での目的でもあると思う。何がしたいのか不明瞭なので、わからないのである。

3.格好つけている
結論もなく目的もないのに、自分が気付いた普遍的な事実や感覚であるかのような語り方をしていた。省略されている主語が「我々」や「人間」のように受け取られたり、意味あり気な語りに「答を提示しているつもり」のように思われていたと思う。は?!って感じである。実際にあった出来事がテーマの時もあるので、猶更わかりにくい。そうして格好つけた分だけ、私からは離れた「嘘」となる。そんな時の、自分を見る妻の顔は物凄く怖い。

あとはこれも格好つけに入るのではないだろうか。酒である。酒を飲むと発信のハードルが下がる。結婚する前の話だが、しばしば泥酔してはここがどこで今がいつなのか、自分が誰で何をしているのかわからなくなっていた。さすがに泥酔しながら文章を書くことはないが、今も酒を飲んでいる。アル中ではないと思うが、毎日飲んでいる。あやふやに向かいかねない状態での語りを、理解することは輪をかけて難しいだろう。

そして最後に、何より長い。ここまで読んでくれたのは妻の他には、時間のある人に限られるだろう。本当にどうも有難うございます。今後はもっと面白い話を簡潔に書けるようにしたいと思いますが、多分無理です。本当にごめんなさい。求められてるわけでもないし。

最後に自作自演の自主映画まで貼っておく。
自分の根っこはこの頃から殆ど変わってないのかなと思う。
そしてこの文章も、酒の力を借りてポチっとする。

赤い姉さん(2003年)