ファン

 ここ数か月ノートPCのファンがうるさい。カバーを外して掃除しても、OSのアップデートやデータ整理をしても直らない。パーツ交換しかないのかもしれないが、最近ようやく気付いたのは、作業している状態というか、ある程度動かしていると音が止まるということだ。放置しているとまた鳴り出す。使い続けているとよいようである。考えることを止めるとうるさいというのは、人のようだと思ったりする。なぜそう思ったのだろう。

 本当にわかったと思えるまで時間がかかってしまうので、何となくやっていることばかりである。頑張ってわかろうと思っても、ひとつの事だけ考え続けることができない。頭は勝手に別の事と共通点を見つけてこじつけたりし始めるので、考えがまとまることがない。無理にひとつの事だけ考えなければならない時、連想を止めると今度は視野が狭くなってしまい何もわからない。

 何か考えたら、とりあえず書き出して仮止めしておく。自分で理解したいから書いておく。だが何かを理解するには新しい知見が要る。わかるためにわからないことが増えていく。自分の経験をできるだけ理解してから死にたいが、全然追いつかないのでいつも絶望的である。だが可能性がゼロになることはない。こうやって公に置くのは考えたことを失くさないためでもあり、新しい知見を得るきっかけになるかもしれないからだと思う。

 善かれ悪しかれ、人は可能性に魅力を感じる。既存の可能性(今できてること)には固執するし、未知の可能性(新たにできること)には興奮する。ただ魅力を感じるには「自分に関係がある」という条件があって、他人事と思うと何にも感じないようである。人は、と書いたが、人以外にはなれないのでわからない。

 理解する可能性はゼロではないとはいえ、生き物が世界に偶然触れる度に無数の印象が生まれ続けるわけで、自分が感じた事も全てわかりきることはできないだろう。動物園の檻の中で終日、同じところを行ったり来たりしている動物がいる。本来なら園全体の数倍の縄張りを持っていたはずが、実際に自由に動ける土地はわずかなので、地面を更に数倍も寄って認識することで、つまり些細な差異をミクロで見ようとすることで、自我を保っているのではないか。または脳内に浮かんだ広大な景色だけを見ながら、ルームランナーよろしくその場で足踏みをしているのではないか。そんな想像をすると、悲しい。やはり自分以外の事をわかろうとした方が楽しいのではないかと思う。悲しい。

 外側を楽しむには、自分と異なる人が傍にいるとよい。自分の存在や考えが相対化される。相対化されたからといって存在の価値は変わらない。どんどん相対化していくと、改めて「皆平等に相対的だ」と思うようになり、他人事も自分事に思えるのではないだろうか…ならない?…ともあれ何事も決めつける前に、まず自分事にできるか考える余地は持っていたいものである。年を取ると「こんなもんだろ」というのが増えて楽しがちだ。だがその分暇になるので、やたらと若者に意見を押し付けたり構って欲しがったりする。それに前頭葉も収縮して、怒りっぽくもなっていく。そして壊れかけのPCのファンのようになる。

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