道行き

我慢してるのも馬鹿らしいと思い、えいやっと引っ越し。

パソコンのモニタをコタツの上に移す。寒さはだいぶましになったが、ずっとコタツに突っ込んでると今度は足に汗をかく。表に出ている手との温度差がすごい。でもだいぶまし。

バイトの後、八日目に書いた映画の、最後の編集をする。どうしても気になるノイズの差し替えや修正など自分の技量と残っている素材で出来る、最終調整だ。だがここに来て、タイトルが決まらない。最初に付けたタイトルでいこうと思うが、しっくりこない。もう一度通して見てみる。やっぱり違う。この作品のタイトルではない。恐ろしい考えが頭に浮かぶ。
「この映画は、完成していない…」
勿論そんな事はわかっていた。6,7年前に考えたストーリーで完結させる事を止め、たった1つのシークエンスだけにするのだから、どんなストーリーでも中途半端になる(シークエンスとは、物語上の繋がりがある一連の断片のこと)。それでも、結果的にそうした方がこの映画は楽しめるし、最初にやりたかった事はそのシークエンスに全部詰まっているのだから、それで終りにするのが正しいと思い、ここ数日編集してきたのだ。終りにして、次に進もうと。しかしモヤモヤがずっと有った。物語全てを納得のいくものに出来なかったという事に対してではない。直視するのを自分がためらっている事が他に有るというモヤモヤ。それは何かというと、続きを撮らなければならないという事のようだった。なんてこった。勘弁してくれよ。どんだけー

冷たくなった手をコタツに突っ込み、目を閉じて考えた。この映画は自分にとってはただの映画ではない。理由は自分が主人公として出ているからだけではなく、6,7年前の自分が答えを探す為に作られたものだからだ。当時落ち込んでいた<漠然とした不安>を解消する為、自分で自分を撮った。映画学校の卒業制作が終って疲労した頭にふと思いついた事だったと思う。一人でひたすら酒を飲んでいる自分を撮影し、酒を飲みながら撮った映像を見た。すると新しい考えが浮かび、その考えについて父と語り合うシーンが浮かんだ。それにその頃夢想していた(本当に夢で見たのかも知れない)美しい断片を並べてみたら、撮りたくて仕方が無くなり、興奮が不安を打ち消した。それであのシークエンスが出来たのである。
勿論、不安は一時的に打ち消されたように思えただけだ。生きている事自体が不安を生むからである。答え(結末)はまた別の話。自分は何を肯定したら生きていけるのかという事であり、その時点での考えを主張するだけでは、自分でも納得できないのである。6,7年前の自分には答えは出せず、今の自分もまだ掴んでいない。死ぬ時までわからないかも知れない。それじゃ映画が終わらない!
『出奔』を作った時は、何より完成させる事自体が一番の目的だった。その時の自分に必要だったからである。その時点での答え(結末)を出した。観てくれた人全てに話を聞く事は出来なかったが、滋賀の上映でたった一人、答えに引っかかるものが有ったと言ってくれた。それだけで作った事が報われたと思う。これからも自分の感情と理屈に向きあって、新しい映画を作ればいいじゃないか。より多くの人に「刺さる」答えを模索して。新しい映画でやれば。勿論、それは正しい。
しかしこの映画は自分で自分を撮った記録であり、自分の未来を想像したものでもある。この方法は、自分が生きていく事そのものみたいな感じがする。でも映画だ。映画である以上、作り手が納得のいく結末が必要だ。自分過ぎる作品だからこそ、きっちりケリをつけたい。ライフワークにするつもりはないが、いつ終りが来るのか見当もつかない。全く、最低だ。

現時点では映画祭は出せないな。とりあえずオーナーに観せると約束したので、仮タイトルのままDVDにする。映像の終りに「つづく」と打ち込んだ。