ハタケが作った曲のCDジャケットをデザインしてたら夜が明けてしまった。かれこれ半年以上待たせてしまったが、締め切りが無いとそんなものである。いや、申し訳ない。
STOUT近くのお家で飼われている犬の散歩のバイトをする事になったので、昼間挨拶に行く。フクちゃん(♂4歳)。人生初の大型犬。黒のラブラドールでこんな感じである。

「ナメられちゃだめよ」と言われたが、ナメられまくってるらしい。ナメられないように…とか苦手だが、これも仕事だ。心を鬼にしてやるしかない。

T橋くんにもらったチケットでフレデリック・ワイズマンの『パリ・オペラ座のすべて』を観る。ワイズマンはバレエファンである。一ファンの視点でオペラ座を見せてもらった。矛盾するようだが、それは客観的にオペラを撮る視点として自然であり、観客としても観易いと思う。しかし当然、彼はただのファンではなく、純度の高い観察者である。純度の高いというのは、被写体やテーマに対する主観的な思い込みを持たないという意味である。監督作品を観た事がある人には周知の事だが、ワイズマンの作品にはナレーションもキャプションも一切ない。モチーフの傍に自然と(ワイズマンは元弁護士である。また長期間被写体と時間を共にする)入り込み、ありのままを記録しようとする。で『オペラ座』だが、自分はこれまでバレエは観た事もなく(レベッカ・ホルンの映像作品に出てくるのくらい)ダンス用語も業界の有名人も全く知らないので、一素人として表方裏方分け隔てなく登場人物を観察できた訳なのだが、やはりダンサーの動きに一番目を見張った。あれが世界一の高みに居る、限られた人達なんだと思った。
度々引用させてもらっているが、栲象さんが行為をする際に集中する先にあるのは高みの対極にある「底」である。高みには限られた人しか行けないが、底にはみんながいると言う。しかし「登る山の高さはエベレストでも里山でも自由」とも言っていたので限定的な言葉では無く、「底」ではなく「そこ」なのかもしれない。ただ「栲象さんの庭」に関していえば「底から階段を上ったところにある」のだと思う。まったく哲学的で興味が尽きない人だ。
話は戻るがエトワール(オペラ座のトップダンサー)の体の使い方は、究極である。人間はこれほど見事に動く事ができるんだと感動した。何人かのダンサーのファンになり、何人かの振付家を覚えた。で、3月にオペラ座の東京公演があるのだが、チケットの高さも世界一に見合ってるんだなあと思った。

吉祥寺に戻り、中本で北極ラーメンを食べる。吉祥寺店は4周年という事で、22時以降はミニ麻婆丼かミニ吉祥丼が無料でつくサービスをやっている。いつもよりゆっくり食べながら「より強く、高く、速く」といった事は志向せず、鈍感でたまに極端に走る自分の事を思った。