感謝


花の寺花見で場所取りがてら公園に一人で居て、本を読める自分は幸せだなあと思った。自分にとって何か刺激になりそうなものとのコンタクトを楽しむ自由が有るからだ。そういう意味においては、本も人も同じで、コンタクトが一方向か双方向かの違いがあるだけである。発見、感動、快感を人生の宝と感じる人間にとって生きているだけで幸せで、有り難い事である。有り難さを感じると、刺激をくれる世界を自分が愛している事、生きている事に感謝している事を示したくなる。
世界と社会と他人を同時に言う事は出来ないが、自分が見つけた事の中で、これは他の人にとっても発見じゃないかと思う表現はアートになりうるし、他の人の生活に使える考え方や方法であれば社会の役にも立てるかもしれないと思っている。
自分の場合は人間に向けた表現しか出来ないが、かといって自分が見つけたんだぞという主張はしたくない。同じ事を他の誰かが先に見つけたらそれでいいと思う。ただ、他の人が自分と全く同じものを見つける事は無いという思い込みは有り、根拠は皆違う人だからだけなのに唯一の自信に繋がっている気がする。
そんな定かではないものに立脚した表現を、世に出していいのかといえば、いいのだと思う。社会や他の人にっての表現の価値は出さなきゃ判らないし、他の誰も出してはくれないからである。
問題は気分がいい時は感謝も出来るが、自分の内側に色々溜まってくると吐き出し、空にしたくて堪らなくなる事である。自分はそれほど石頭ではないと思うが凝り性らしく、融通が効かない事がある。臨機応変より自分のやり方を通そうとして思惑が外れうまくいかない時に一番ストレスを感じるようだ。酒乱もそういう事からきているのだろう。そうして吐き出されたものでも反応してくれる社会というものは、元々そういうものだとはいえ、ストレスの原因である一方でやはり有り難いと思う。

やっぱり寒いので家で飲んだ。「みんな違ってみんないい。みんなキモくてみんなキモい。」とあるアルファブロガー座右の銘だが、人柄が出ていて味の有る言葉である。来てくれた皆さん、有難うございました。