厭きた


ニーチェは全ての生き物の存在を成立させる根本原理は「力への意志」であると言った。ハイデガーによると「力への意志」=「意志」であり、表象と意志を根本原理とする西洋哲学の延長上に有る考えだという。自分で自分を命令可能な状態に置く覚悟が必要なものが意志である。意志が志向するのは「自分の力の増大」であり、自己超越の先、更に高みに自分を押し上げる事だという。意志がその目的を果たした時に快感を得るのは、他者に対する優越感を覚えるからだそうだ。
まだ全然読み始めたばかりだが、自分が存在している事に対する確信というか、思考への信頼感みたいなものを感じ、自分が求めるものとは違うなあと思った。優越感は否定しないし、明らかと思われるものから明らかではないものへ思考を進めるプロセスも真摯で真っ当だと思うのだが、言葉で存在の原理を説明しようとすると、どこかで自分の考えに囚われてしまい、違うものの説明になってしまうのではないかと思うのだ。

肉体も思考も根源は無なんじゃないかというのが今の自分の感覚なので、そう思ってしまうのだろう。虚無的な捉え方ではなく、無から生まれたものの根本にも無があり、表象も意志も知覚できる現象としてその根本を包んでいるような捉え方である。
言葉では規定できない無が原理であるからこそ、全て質的にも変化し得るが、本質には無を孕んだ(というか中心にある)まま、というか。うまく言えない。

根本原理を提示できるのは言葉ではないんじゃないかと思うにあたり、気がつけばpremiereが立ち上がらなくなり1ヶ月。ブログやtwitterで文字中心の生活だったが、そろそろ違う表現活動もしていきたいと思った。自分を解説するのもいい加減厭きてきたという事かも。