ブログ

2週間以上更新せず、日記を付けない日々を過ごしていた。外で酒を飲む機会が多く、家では多分光熱費もかかっているので、これから大変だと思う。転んでできた傷には薄皮が張り、脂肪が体をとりまいている。

最近お気に入りの文芸雑誌「en-taxi」の巻頭特集「忘れがたきひとびと/忘れられた秀作」の中で萩原魚雷氏が「金鶴泳のこと」という文章を寄せている。

彼は小説を書くことを「自己解放」もしくは「自己救済」の手段にしていた。/「一匹の羊」という随筆では「自分は、自分であるよりほかないものだ。人は、それぞれ、そのあるがままの状態においてすでに存在理由を得ているはずだ」といい、「ではどのように生きるのか、どのように世界(外部現実)と関わるのか」と自問する。(en-taxi vol.31 萩原魚雷「金鶴泳のこと」より)

46歳で自殺した小説家と自分の境遇は全然異なるものだと思うが、上に引用した部分には強い共感を覚える。自分がブログを書く事も、自問のようなものだからだ。

「どのように」は、相対的に変化するものだと思う。ただ自分の在り方を成立させる、何らかの仕組みに則ったものなんだろうと思う。

壮大な世界観と森本レオの声のせいか、いつも途中で寝てしまうアニメ『王立宇宙軍オネアミスの翼』の中に、こんなセリフがある。

シロツグ「なあ、マティ。現実がひとつの物語だったとして...、いや、そう考えた場合に、もしかしたら、自分は正義の味方じゃなくて、悪玉なんじゃないかって考えたことないか。」
マティ「さあ、なあ。ただ...、ただ、まわりの奴ら、親とかみんな含めてだ、そいつらが俺をほんのちょっとでも必要としているからこそ、俺はいられるんじゃないかと思っている。金物屋だってそうだ。誰かが、必要としているからこそ、金物屋でいられるんだ。この世に全く不必要なものなんてないと思ってる。そんなものはいられるはずがないよ。そこにいること自体、誰かが必要と認めている。必要でなくなったとたん、消されちまうんだ。そう思う。どうだろう?」
メモリアル78「オネアミスの翼」についてより)

他人がいて初めて自分が立ち上がるような事というのはよくわかる気がする。「金物屋」のように社会的に判りやすい、ある程度固まった属性としての自分というのもある。

自分は「どのように」というのは、何かに必要とされた時、必要な役割をどう演じるかだと思う。「何か」が他人や社会の場合、技術や経験、裏打ちされた肩書きなどが必要になる役割もある。日常的には同じ場に居合わせた人達の中の自分という役割が立ち上がる。電車の中などの閉鎖的な空間では、役割が意識されて居心地が悪くなったりする。
そしてその役割は恒常的なものではなく、やり続ける必要もない。


まあ、多分考えすぎなのだ。特に意味はないけど、過去の空白を埋めていこうと思う。それで納得がいく事もあるだろうし、なくてもいいのである。