自分は言う事がころころ変わる

数日前からの自分を観察して思ったこと
太ろうが、無表情になろうが、人と会う予定があっても気にならなくなったような
鏡を見ると目が死んでいる これは小学校の頃、家庭科の先生に言われた暗い目である

演技とは自ずから心を動かす事だと学んだつもりでいる
某WSに参加して、とある条件を与えられた。それで気付いた事は、嘘をつくという事は日常的な事で
ごまかしや言い逃れを無意識にしながら、何とか毎日生きているという事であった。

嘘も本当も関係なく、他人にどう受け取られるかが全て。本当はどうであるとかいうのもどうでもいい事になってしまう。他人に認識されないものは存在しないと言ってもいい。

自分にとって自発的に心を動かす事は全て嘘なのだった。子供の頃から社交的に他人の心や本音を探ろうとしてきたが、それは他人への興味が先に立つものではなく、比較して自分を認識したいが為でしかなかったのだった。

「男が失敗するのは酒と女」
と子供の頃から言われてきた。祖父の代からうちは酒と女に身を持ち崩すダメ男の家系であった。自分は子供の頃はどうでもよかったが、上京以降は破滅を求めて両方好きになった。名前とは裏腹にそれらに惹かれるのは青年期の特徴のひとつだろう。

他人に固執する気持ちはないのだった。家族ですら、他人との違いは「血が繋がっているらしい」という論理的な特殊性でしかなく、だからこそ酔っ払ってガンの手術をして間もない家族に「いつ死ぬの?」とか訊いてしまったりする。

素でいられる時は、心を自発的に動かすことは無い。人が作った俗っぽいものに浸るか、一見人為的ではないものに人の痕跡を見て浸るか、それ位だ。他人の為に自分が何かするのは、自分に関わって嫌な思いをさせるのが申し訳ないからである。

子供の頃から幽霊になりたいと思ってきた。それは観察者として特殊な位置にいたいという中二病的な欲求なのだとして封印していた。しかし今年30になるという時になって、やはりそれは自分の根源的な欲求なのだと思った。

自分は「何を考えてるかわからない」とよく言われる。自分を撮った映像を見て、自分でもそう思うし、「何を考えてるかわからない役」を当て書きされた事もある位だ。それはどういう事なのかというと、日常的には自分は「何も考えていない」というより「何も感じていない」のだった。食欲、性欲、睡眠欲以外に自発的に感じるものはない。それは当たり前なのだろうか。
それとも母親の腹の中で死にかけ、仮死状態になった事が影響しているのだろうか。

子供の頃から自分は特別だと考える事はとても恥ずかしいと思って考えないようにしてきた。でも自分の感情を他人に判らせるように動かす事はとてもできないのだった。何も信用できない。

少し長じて理屈で安全地帯を認識するようになると、周囲はどうでもよくなった。信用できなくても自分の生命に影響がなければどうでもいいのであった。それは家族も他人も自分以外のものは全て一緒だった。信用できないけど尊重はできる。それだけである。

本意じゃないからストレスが溜まる。弱いから溜まったストレスを泥酔して爆発させる。自己嫌悪からまた他人を尊重し自分を卑下する。そんな繰り返しなのだろう。そこに幼少時に根付いた破滅願望が絡んでくる。そんな負の連鎖の中で生きている。

元々自分は声帯模写の才能が有るようだった。子供の頃は無意識に前の席の人の声(朗読で順番に当てられる時など)を模写し、周囲に驚かれていた。声は聞こえた人のものだ。発した者の思惑などどうでもいい。

幽霊というのは体が無い。いつの時代の、性別がどうで、どういうパーソナリティで…というのは生きた人が作るものでしかなく、本来の(?)幽霊というものは時代も性別もなく、条件しかない。自分が考える幽霊には条件もない。

何かを観るとき、味わうとき、時空を越えて側に寄り添う事ができたらいいなと思う。ずっと観察できるのが幽霊だとしたら、生きている内は何かの映像作品にナレーションという形で参加できたらいいなと、ちょっと思っている。ナレーションの声の主が幽霊という設定もよくあるけど、自分は性別も年齢も越えて、かたい電子教科書の解説の声とか、人工の声の前にやれたら楽しいのになと思っている。

ともあれ今年は30歳。声を上げていけたらいいなと思う。

悲劇や 自分には犬は飼われへん

楽しそうだなあ