にへ〜で〜びる


本についた埃の匂いはチョコレートに少し似ている
カラーボックス2つからはみ出た本をできるだけ捨てる
活字と漫画と写真集、雑誌に参考書
昔よりは全然捨てられるようになった
埃が積もるまで必要とした事があったかと
思われるようなものは即捨てられてしまう
そんな問いとは無関係の本が残る
もらった本はちょっと困るけど最終的には3〜5冊
いずれは全部捨てるだろう
いつかどうせ何もわからなくなると思えば
傲慢だけどそもそも知識だけでは有り難味がない
経験が伴っていなければ読書はつまらないし
何かに夢中な時、本を手に取る事はなかった気がする
どうしようもなく退屈な時
金が全くない時
やあ、と声をかけるような関係だ
そんな訳で給料日まではチョコを食べているのだが

"味覚は一瞬のうちに至境に達し、それを展開するが、しばしば一生つきまとって忘れられない記憶ともなる。(中略)幼少時におぼえた味というものは、手術後の一杯の水や、山で食べるヤマメや、飢えの一歩手前でありついたカレーライスなどとおなじように、"料理"として取扱っていいものか、どうか。(中略)むしろ超越的な天恵とし考えなければならないのであって、いくら他人に説明したところで通ずるものではなく、ただ黙っていつくしみ愛撫するしかない決定的瞬間である。(中略)しかし、共分母がまったくないわけでもない。たとえば、もし誰かが、しみじみとしてつつましやかなものということをいいたくて、子供の頃、遠足に持たされたオニギリのほんのりした塩味、その核として入っていた一片のサケの味、ということをいいだせば、表現はそこで尽きてしまうとしても、聞くオッサンたちの荒んで枯渇した胸や腹のあたりに不意にあたたかく喚起されてくるものは莫大で精緻で、抵抗しようのない力を持っていることだろうと思いたい。"

"このあたりのプロの密漁師は地元の人もいるが札幌あたりから乗りこんでくるヤクザが多いとのことである。(中略)この湿原にはヤチとかヤチの目などと呼ばれる穴が草のなかにできていて、それにはまると人一人ぐらい平気で呑みこみ跡も形ものこさないのである。(中略)ヤチに呑まれたヤア公はズブズブともぐってそれきりだ(中略)その話をはじめて聞いたとき、しばらくしてから盃をおき、あてずっぽうに、「ひょっとしてご当地では方言で女のあそこのことをヤチといいませんか?」とたずねると、画伯は軽くおどろき、「よくご存知ですね。そのとおりです。どうしてわかりました?」「いや、マ、何となく」言葉をにごしながら私は盃に酒をつぐ。どこの男も悩みはおなじであるナと、ほろにがい微笑。"

"ところで読者諸兄姉は"トトチャブ"というものをご存知であろうか。字面を見れば何かの魚のお茶漬かと想像したいところだが、そんなチャチなものではない。(中略)水をたらふく飲んでバンドをギュウギュウしめて空腹をごまかすことをそう呼ぶのである。朝鮮語でそう呼ぶのだと、朝鮮人の友人に教えられた。(中略)あるとき廊下ですれ違った朝鮮人の友人が、いたましい眼つきを半ばの冗談にかくして、トトチャブはつらいやろと、ささやいたことがある。そのときこの単語が火のように背骨に食いこみ、そのまま居座って今日まで棲息しつづけているのである。(中略)某年、某月、新宿の三流の映画館へ入って時間をつぶすことにした。するとニュース映画があって、東北の冷害におそわれた山村の小学校の教室が画面にでてきた。(中略)教室からでて、運動場のすみっこで砂など蹴って遊んでいる男の子がいる。カメラが接近すると、その子は、テレたような、陽がまぶしいような、いじけた顔でニヤニヤ薄笑いして、とぼとぼと、消えてしまった。(中略)私は席をたち、暗くて、くさくて、落書だらけのトイレに入り、だまって泣いた。"

開高健「一匹のサケ」より)



あじまぁ沖縄方言 ニフェーデービル(にふぇーでーびる)