8月の死臭

死といえば外れの露地で死を感じているのが好きで
神社や庭や寺や墓場やお地蔵さんや舞台や
そういうところは外れにあるからよかったのだけど


アニメの一番好きなところも
自分がいない世界が生き生きとして眼前にあるところで
安楽でかんぺきな世界をこのまま見ていたいような
干してる布団の上で転がってた幼児期の気持ちよさに遡る嗜好である

でも今は例えば『AKIRA』の世界の過去が
自分の生きてる世界に収斂するような、息苦しさがある
変わる事、それ自体は仕方ない


でも、数少ない大切な人の寿命を短くしてくれて
母の歯ぎしりと涙のせいで、土に還る事すら危ういまま
どうも有難うと今更の寝言だ


震災の話でした


劇的ビフォー3.11といえば『行け!稲中卓球部
古谷実はもうあんな作品は描けないし描かないだろう
そして勝手にアフター3.11は『あまちゃん』である
引越してから、テレビ観てないけど


ヒトは生殖以外を目的に生きる事ができるので
道端であり得ない角度で佇むおばあさんや
周囲をシャットアウトして歩むおじいさんに
近づいていく


老いといえば最近「耳がよい」とよく言われるので
また相当目が悪くなったようで
世界への興味も薄れていくのだが


取り返しのつかない事に気付く瞬間だけが
生きている実感で、それはもう堪らないものがあり


夜、床に寝転がりくだらない話をしていて
こいつホント馬鹿だなあと好ましく思い
話が一息ついたところであ、一人だと気付いた時の
物狂おしい感じはただの金縛りだけど


十年以上飼っていた猫が死にそうなので
傍に置いて本を読んでいて
気付いたらすぐ傍で死んでいたりするのは
それに気付く瞬間というのは
堪らない事だ


体験を誰かと共有できるものにするのは全て語り
堪らない瞬間を記録する行為でもあり
虚実ないまぜの語りを受け入れる判断は
とても主観的な選択なのである


信じられないものは気のせいにしてやり過ごせる
だから共感するしないに悩む必要はないけど
表現しなきゃ生きていけない人(多分自分も含めて)は
悩む必要があるのだが
そこがなんだか気持ち悪くなってしまって
ただの疲れからくる拒絶反応な気もする


必死な姿が一番美しいと思うのは変わらないから
瞬間でいいやと思うのも変わらないけど


そんな状態でうんざりでも
一番好きな映画は観る事ができた