余裕のない自由

禁酒を始めたら眠りが浅くて疲れる。
酒はあらゆる気持ちで飲んでいたので、
なくなってせいせいすると共に
気持ちも消えたかと思う位淡い。


なんてまあ、言葉は言葉だ。
便利というより危ない印象の方が強い。
今、ここで起きている事を伝えるには不向きだけど
起こっていない事を想像させるには
とても向いている。
また無意識に自分は知っていると思っているから
結局知っているものとしてしか見せてくれない。


一方で身体は、物である。重さがあり、場所と関わっている。
今、ここで起きている事を伝えるには
物理的な制限があり、客観の欠如があり
カメラなどのそれを補う道具もまた、主観的に使われる。
身体によって伝えられる言葉にならない情報もある。
現象として自分と触れた情報だけが信じられる。
正しいかどうかではなく、伝わってきたものが。


ところで自分はなぜ、生きるのかといえば死にたくないからで
なぜ、死にたくないかといえばいずれ死ぬからである。


生きているだけで死なない目的は果たしている事になるが
それでは簡単過ぎるので「よく」生きる事を考えてみると
自分ひとりの「よい」なら変化はあれ既に大体は決まっている。
それを他しゃと共有する時には本当に途方にくれもし、
必死にならざるを得なかったりもする。
不勉強だし相手の事も本当にはよくわからないので
まあ、大方失敗する。


それでも私の「よい」を書いてみると「自由な方がよい」に尽きる。
何を「自由」と感じるのか伝えようとするともう難しい。
例えば飲酒という選択肢が無い方がより自由であったりして、
交通ルールとかではなく酒乱にとっては別の意味でも自由だったりして
中々複雑だ。
「選択肢が多い」とか「運動量が大きい」という「自由」もある
束縛や制約がない状態である。
でも他人との約束や、身体的な制約はなかなか反故に出来ないし
そもそも反故にしたら「よい」と感じている訳でもない。
せめて余計な約束はしないように、心掛けるしかない。


「遊び」という意味でなら、「余裕」という事かもしれない。


自転車を漕ぎながら天国を想像してみる。
「平坦な一本道がずっと続いている。
アスファルトの道路だがセンターラインも信号機もない
その道路を、マウンテンバイクで走っている私がいる。
天気は良いんだか悪いんだか、とにかく雨は降っておらず明るい。
限界まで自転車を漕いでスピードを楽しむもよし、
疲れたら自転車を止めて寝てもよい。
疲れるかどうかは知らないが、多分腹も減らず、眠くもならないが
そういうフリをして延々と遊んでいる。」