昨夜のこと。
5年ぶりに眼鏡を買って
よく見えるようになった
ひどい顔をしていて飲んだ
海辺でずっと飲んでいたい
こんぶとかちゃぷちゃぷ
ちゃぷちゃぷしていたい
まだ、それよりもっと好きなことがあって
誰かの好きなことをしてるとこを見ること、
誰かは近くに感じられるひと、
他人事の自分よりは
自分事の他人が好きというのは
他人の方が↓を感じられるということ
自分の形・におい・手触り・音、それらの今の状態など
逆に自分の↑を見つけられたら嬉しいし、
見つけられたがるし、見つけられた方を信じるんだろう
飲むとお喋りになる。
飲み過ぎると何かを無くす。
切なくなるためにこだわって、
それから無くすのは気持ちいいけど辛い
辛いから、大切と感じる人を減らして
見えないから見なくてよいと思いこんだ
今年も人が死んだ
だから知り合いを増やすわけではないけど
来年は今年より死ぬ
自分が死んでも気がつかないけど
頼んだわけでもなく自分を生んだ家族が
死ぬことをどこかで信じてない気がする
見えないからか。
NHKで仙台の荒浜のドキュメンタリーを見た
「みんな」に喜ばれることが
海に生きる老人を満たしているように見えた
その折り合いのない瞬間的な、十全さと
「なんだっけ」と話しかける相手がいるのは
本当にいいなと思った。
でも一方的に
メディアから伝わったものは
やっぱり信じられない
信じるというのは
ノーブレーキで飛びだすイメージがある
ビビリなんだろう
震災のことも、未だに信じられていないんだと思う
一緒に飲めれば信じられると思う
たくさんの、もう飲めなくなった人と繋がるには
どうしたらいいのか
がじゅまるさんに久し振りの水をやると
なんだかワキガ臭かった
視力が0.3になっていた
どいつもこいつも斜め上の発想しかしなくなると、自分が死んだくらいでは驚かなくなるのではないか
— 小林銅蟲 (@doom_k) 2014, 5月 15