一人じゃなくなってしまうこと

妹に子供が生まれた。twitterのつぶやきを音楽に変換するUSTREAM中継をした。祖父の死に予想以上に悲しんでいる自分を発見した。非協力乗車会の行動に不快なショックを受けた。新生児の世話の大変さに「もし誰にも頼れずこの状態だとしたら虐待も起こりうるのかな」と実感した。

上記は今日自分がtwitterで知った「他人の人生に起きた事」の一部である。何かが起こり、感情が生まれ、つぶやかれる。twitterをしていなければ知り得なかった出来事と、感情である。もちろんつぶやきの中には他愛のないものもある。基本的に何かの為に残すものではなく「今現在」を示す為にあるツールだから内容は何でもいい。

でも結果として一時的とはいえ、思考の単位が「自分だけ」から「誰かと一緒」になるような感じをもった。感情だけではなく。自分を含めた多数(とはいえないかもしれないが)がごく自然に意識される事。それはつぶやきが個人的であるからこそ、原則的に内容は何でもいいからこそ、信じられるからだと思う。

もちろん相変わらず自分は自分ひとりで、何が変わったという訳ではないのだが。ともあれtwitterは情報収集やコミュニケーションツール以前に、新しいコミュニケーションだと思った。