「コンピュータの普及が記憶の外部化を可能にした時、あなたたちはその意味をもっと真剣に考えるべきだった」(『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』 1995 押井守

evernotegmailなどオンラインサービスを利用するだけで、既に記憶の外部化は行われている。プライバシーを提供する代わりに外部化の利便性を享受する事。それは私が私である事を曖昧にする事でもあると思う。
オンラインサービスの中に、ブログがある。その時考えている事を他人に示す行為であると同時に、半永久的にweb上に情報として残す行為でもある。インターネット上の情報は基本的にはいつでも誰でも閲覧できるものなので、過去にある人が書いたブログを読んだ時に、見知らぬ他人の考えを知り、身近に感じたり、感心したり、憤ったり、呆れたりする事ができる。他人にとっての私が、web上の情報で判断されるのが当たり前の時代になった。その情報は確かに全て私であるが、今現在の私ではない。
twitterが革命的なのは、検索エンジンにヒットする位オープンで且つ今現在に限りなく近い私に繋がる事ができるからである。twitter上でやりとりをする時や、USTREAMで番組を他の人と共有する時、twitterのTLに今の共有を感じるのは、発言者の今現在にリンクしている事が自明であり、信じられるからだ。ブログのようにある程度まとまった意見を載せる場でもなく、140字以内で今書きたい事を書くというルールのユルさが実現した、革命的な発明だ。
コミュニケーションにおいて他人が接触できるオンライン上の私が有機体の身体を持つオフラインの私と精神的にも近くなっている現状には新しい哲学が生まれてきていると思う。生き方がツールによって影響を受け、広がりを持ち出した感じがする。情報が知識だけではなく、個々人の感情も含むようになっている以上、自分はどのように生きる(べき)かに「オンラインの私はどうあるべきか」も重要な懸案事項になってくるのである。
オンライン上の私の特徴は世界中「誰からでもアクセスできる事」と「半永久的に情報が残る事」である。更に不可逆な現実のTL上に編集可能な私がいるという事は、一度考えてみてもいいと思う。

4月馬鹿の日には相応しくない話である。つくづく「つまらない男ね」と自分を責めるのであった。

無邪気は愛すべく、無責任は憎むべし。されども無邪気は、無責任の一種なり。(斎藤緑雨『半文銭』より)

(付記)文章訂正しました。まあ酔って語りたくなったんでしょう。