ようやく夜も暖かさを感じるようになってきた。夜の街を徘徊する者が出始める季節である。かく言う自分も500ml缶片手にコンビニを渡り歩きつつ人気の無い場所をうろうろしていたものだ。今は自制しているが、苦手な寒さが去るとちょっとむずむずする。
むずむずといえば男はセクシーな女体を見る時に、女は自分の為に動く男を見る時に脳に快楽物質が出るそうな。これは恐らく性別の役割に刷り込まれたものであるからして、そういうものなのである。男は女の役に立つ為に能力を身に付け、女は自分の肉体が男のご褒美に見えるよう努力する。これはあくまで性同一性がとれている場合の基本仕様でしかなく、人間社会においては個々人の後天的な経験、環境から発展した好み、志向性の方が重要であるのだが、基本的な仕組みが顔を出す時というのは、自他問わず微笑ましさを感じてしまうものである。
微笑ましさといえば先日のブログに他愛も無いトラウマを書いたのだが、これは既にトラウマをくれた相手(すなわち父)には語った話である。うちの家族は皆内向的でコミュニケーション力も高くないが、父と自分はO型らしく(?)自分が思った、感じた事は実も蓋も無く素直に相手に伝える人間であった。語ったところ「あ、そうか」と言ってた。微笑ましい自然な反応だった。ちなみにO型は「ヤリ○ン」もしくは「ユルイ」と一部で言われているようだが、自分の経験上ではあながち間違ってもいないと思う。
日本において桜は特別な花である。「同期の桜」なんて曲もあるが色々な個人的思いを託して見れる花である。

桜は大和民族の花なるとともに、精神病の花なり。(斎藤緑雨『長者短者』)

とか言われてきたが、一気に咲き誇りあっという間に散りゆく姿に美を感じるのが日本人らしさとも言われている。この時期に新学期とか新入社員歓迎会とかあるのは「で、お前はどう感じるのだ」と問わず語りに訊き、共感を深められると思われてきたからなんじゃないかと思う。
正直言って植物は植物のルールで生きている訳で、全く共感できる慣習ではないが、日本の社会において意味を持つ時期なんだと思う。始まりとか、日本人らしさの共有とか。日本の共同体における「無礼講」というのも、桜を利用すると起こし易いのである。
どこまでも主観的な日本人の人生観。桜は日本人認定の比喩ツールなのである。

あっという間にキンチョーの夏が来る。大文字焼、浴衣、昨年死んだ大原麗子さん。日本人というのは自分の人生を託して観るものが多いような気がする。だから、好き。

(付記)例の如く酔って話が飛び飛びです。なおそうかと思ったが、酔っぱらいの雰囲気が出てるのでそのままにする。メンドイシ。