ひとりごと

生まれて29年目にもなると、友達の半分は結婚し子供を作っている。残りの半分位は作品を作るか、仕事をしている。残りは未だ、社会との交わり方を迷っている。

先日アップした7年前の映画『赤い姉さん』に「自分の根っこは欲望で、記憶とふらふらした自意識が自分」というセリフが有る。当時の自分は、自分の正体を掴めない事に悩んでいた。今は「自分の根っこ」は何も無いという事をようやく自覚し(つつあり)、認められるようになった。自分とは、誕生から死へ向かって情報を運ぶ入れ物の事で、意識とは入れ物の恒常性を維持するシステムの事である。欲望とは動物としての本能から生じるものであるが、人間の場合は社会における自分の理想とする在り方を実現する為の原動力である。根っこではない。愛とは自分の求める在り方を実現する過程で生じる強い感情である一方、有りのままを受け入れる穏やかな気持ちでもある。欲望の一種である。

快楽物質ドーパミンは生きている人間へのご褒美である。全ての人間はこれを求めて行動している。ところがドーパミンが出ている状態というのは、体への負担が大きいらしい。なので四六時中放出させる訳にはいかない。恋愛においてもパートナーと接する事でドーパミンが出る期間は約3年間だそうだ。出なくなった後は、パートナーの存在が必要条件となるドーパミンを放出させる違う方法を見つけなければ、カップルは維持できない。

話が逸れた。7年前の自分は、自分というものを見定めるまでは社会との交わり方も決められないと思っていた。セックスとは何かというと、子供を作る事である。実際に人間の子供を作る事でもあり、作品という名の子供を作るという事でもある。他者(他人、組織、思想など、自分以外の自然と社会の全て)との共同作業で何か新しいものを生み出す行為という意味においては、同じ事である。自分の望む在り方を決定しなくても、他者からの要求に応える形で「交わりのようなもの」は生じるが、それは本来の意味での生み出す行為ではない。自我が有るだけでは子供のままだ。自分の望む在り方を決める覚悟が大人になる必要条件である。この覚悟、実は無意識レベルでは自我が生じた時点で既に有るのだが、自覚して始めてほんとうに交わる事が出来る。

人生に意味は無く、人は必ず死ぬ。ゆえに人生は素晴らしく、自分にとって価値がある。意味が無いからこそ、自分で自由に決められるし、必ず死ぬからこそ、感動を覚えるのだ。1.自分の根っこが無である事。2.無意味で時間制限がある世界に存在するもの全てが、根本的には無である事。3.同じ無を共有するもの同士が交わり、新しい有を作り出せる事。自分が自覚した(しつつある、か)のはこの3点であり、この事を見据えて生きていきたいと思う。自分の存在自体を含むエロスとタナトスを内包する表現で、世界と交わりまくりたい。そしていつか上記3点の意識を強く持つコミュニティを形成し、自殺者を無くしたい。

漠然とした覚悟で申し訳ない。ちなみに『赤い姉さん』では「酒とダンスとウソ」を人生を楽しむツールとして取り上げ(ようとし)ている。酒には飲まれてばかりだが、酔いは人生に必要なものだと思う。ダンスは世界と自分を協調させる気持ちいい表現である。まだまだうまいウソは吐けないが、ホントを内包するウソが吐けたら最高だと思う。映画である。

しかし改めて周りを見渡すと、世界と交わりを持ち出すと途端に老けて見えるようだ。老成された者の持つ輝きは眩しいばかりであるが、未だ定まらないものが持つ甘酸っぱさにも心が惹かれてしまう。やっぱり優柔不断のままかしら。