無意識

芝居のチケットやくじが当たったと思えば、次の日には1万円落とす。今のところ金銭的にはちょっと損をするようになっているらしい。子供の頃も、不意に頂戴した小遣いをソッコーで洗濯してしまったりしていたし、大人になってからも、休日に公園で昼寝してたら、同僚にもらった誕生日プレゼントの和財布を失くしたり。そう、単なる不注意である。でもいつも、何とか取り返せる範囲に収まる損失になっているのも、無意識に自分で損失を調整している気がしてならない。だから意識しろっつうの。

観たい映画が有って借りに行くも、何だったか忘れ、『ヤンヤン夏の思い出』『ほえる犬は噛まない』『鬼が来た!』を借りる。初めて観る『ほえる〜』を鑑賞した。ペ・ドゥナよ。あなたは何故そんなに可愛いのですか。いいなあ。ポン・ジュノ監督のデビュー作らしいが、「犬殺し」というイヤーな素材を使った面白い映画だった。人間の暗い部分、残酷だったり、依存してたり、それらを自己正当化したり、という他人には言えないけど誰もが共感できるものを、コメディとして見せてくれた。底抜けのお人好し役のペ・ドゥナ他、皆役に対して嘘をついていない感じがしたので、よかったと思う。イ・ソンジェは、上手にまとめてる感じ。面白かったんだけど、酔って寝てしまった。何度も観る事になるのはそういう訳である。


ナショナルジオグラフィックに掲載されてた写真。自己啓発系って自然の写真とかよく使うよね)
子供の頃は、自分が巨人を応援すると必ず負けると信じていた。毎晩巨人ファンの父はテレビでナイターを観ていたのだが、酒を飲みながらという事もあり、負けると不機嫌になる。子供心にそれはイヤだったので最初は「巨人勝て。負けるな」と心の中で念じていたのだが、その度に巨人は負けた。では、と「・・・」と何も念じなかったら、勝ったり負けたりした。勿論偶然である。

ただ逆に「願えば叶う」というのは本当かもしれないと考えるようになった。ただ「叶う願い方」を知らないんじゃないかと、色々と経験して思うようになった。目前の事だけ意識して、こうなればいいなと、単に言葉だけとか、都合のいい妄想と共に願うと、叶わない。自分の力が及ぶ範囲の願いの場合、自分の実力を知っている為に無意識では叶う事を信じていないからなんじゃないかと思う。自分の力が及ばない願いの場合はどうか。宝くじは当たらないものだと思っているから当たらないが、ギャンブルや懸賞などは「直感」が大事であると思う。当たる時はなんとなく、自然に当たるものを選んでいるのである。

とある脳科学者は「未来の自分像が今の自分を形作る」とか言っていた。将来なりたい自分とその生活の様子を、具体的に、出来るだけ事細かにイメージできるようになると、現在の自分は自然とイメージとのギャップを埋めるように生活するようになるというのだ。悲観的な予測は日常の些細な事柄だけに働くよう調整し、自分を騙す事ができればいけるかもしれない。騙すというと感じが悪いが、信じる事ができれば、いけるかもしれない。なんとなく、そうかもななんて思っている。子供の頃の自分は、もちろんそういった事は考えず、都合のいい願い事はしないようにしよう、と思ったのだった。

ともあれ、無意識を語る言葉は非常にうさんくさくてイヤなものである。証明できないからだ。ところが自分の無意識を観察して得たものというのは、逆に信じられるような気がしてしまうものだ。思い込みは思い込みとして、一人でしまっておくのが一番いいのだろう。間違っても他人に押し付けて金銭をせびったりしてはいけない。意識というのは本当に厄介で、容易く自分を騙してしまうものなのだから。