もしそれがあるとして、全てにおいて完全なものが目前にある事を想像すると、とてもこわい。そんなものは存在し得ないと信じているからこそ、自我が崩壊しそうでこわい。まあ無いと思うが。

そこまでいくと大げさだが、満たされる事への恐怖心は常にある。満足する事は自分にとって不幸せである。常により良い自分を求めている、とかそういう事ではなく、単に満たされている状態がこわい。逆に自分に足りないものや二度と取り戻せないものを強く思う時、切なさと共に幸せを感じる。自分にとって生きている実感とは欠落感なのである。

それとは関係があるのかないのか、いつも服のどこかに穴が開いている。転んで開いた穴やタバコで開いた穴。お洒落は全くしないので、服装は相手に失礼がなければそれでいいと思っている。また、大概の場合において人は他人を全体として認識するので、穴は気付かれない。見た目に関しては髪型なども一緒。それなりに自分と付き合いの長い人は、服の穴など気にしない。

そもそも自分はほとんどのものを部分でしか見ていない。他人を見る時も、全体から発せられる情報を自分の知覚でキャッチできたもの、という部分的なものしか見ていない。自分の顔さえ部分的にしか見ない。主に鼻毛と髭周り。

RSSリーダーtwitterなどで収集する情報も、自分というフィルターがかかっているし、時間の制約があるので部分的である。もちろん世界中の人と友達にはなれない。

穴だらけの自分がキャッチしきれない、知覚の穴。自分の世界も穴だらけだ。意外な出来事というのはそんな穴から飛び出してくる。これから先、他者によってその穴が埋められる事があるだろうか。自分が他者の穴を埋められる事があるだろうか。

ある、と思いたい。どうせ欠落感には限りが無いのだから、多少は満足してやってもいいと思っている。