カミングアウト2


昨夜は随分酔っているが、今朝も酔っているのである。酔生夢死。

昨日、内田樹の研究室というブログで、危険を察知する能力に長けているのがリーダーであるという記事の中に

「不快な入力」が多い環境にいると、人間は鈍感になる。

とあり、自分の処世術として身に付けた省エネモードの弊害(リーダーになりたいわけではない)を思う一方で、「ああ、不快だったんだ」と思った。端的に言えば、自分は生まれてきた理不尽さとの折り合いがまだついていないのである。恥ずかしいが事実だ。

自分が生まれた時、ひどい難産であった。医師の判断ミスもあり、母子共に危険状態が長く続いた。よくある話である。その話を初めて聞いたのは「自分の名前の由来作文」みたいな課題が出された時だっただろうか。これを何かの言い訳にしてはいけないと、子供ながらに思った。母を愛しているし、自分に名前を付けた父も愛している。可愛がってもらった。五体満足で健康に育ててもらった。ただ、生まれる事の理不尽さにプラスして、生まれる前に死にかけた理不尽さがあった。そして自分の名前があった。

平凡な毎日を送らせてもらっているという実感の中、自分が何をしたいのかわからなかった。毎朝起きると「あれをやろう、これをやろう」という気持ちにはなる。好きなものもたくさんあった。マンガ、小説、友達と遊ぶ事。作り話を聞かせる事。エロ本、恋愛ごっこ、中森明菜。学校の勉強も好きだったし、下手くそだったがスポーツも好きだった。科学。社会学。心理学。人形劇。NHK。口ゲンカ。アニメ。自分が本当にしたい事はわからないまま、映画を作った。

学校で求められる振る舞いの延長上に、会社での人間関係があった。仕事として求められる事には応えてきたと思う。仕事が優先事項になると、内面への視線はもちろん、周囲へのアンテナも必要最低限の情報しかキャッチしないようになる。問いを持たず、目の前の事だけ機械的にこなす状態を、省エネモードと呼ぶ。人の顔もろくに見てなかった。

酒を飲み過ぎた時は、一緒にいる相手によって態度が変わるが、大概の場合、ふらっと行方不明になった。鞄も携帯も時には靴さえ捨てて一人になるのである。本当は自分以外のものがずっと不快だったに違いない。愛していると、言えばいいというものではない。「いいんじゃない別にどうでもいいし」と受け入れる事と、本当に感じる事は別なのである。


演劇を始めて、生き方について考える時間が増えた。人前で演じるというのは、例えどんな役であっても、自分が人生をどう使おうと考えているのか、剥きだしになる事であるからだ。さらに首くくり栲象さんに出会い、舞台に最初に出る瞬間を意識するようになった。
それは生まれてみせるという事なのだった。その行為をすべき理由は無い。ただ理不尽さに戸惑いながら、覚悟を持って人前に出る。そして舞台上で生きてみせて、死んで見せる。その一連を目指すのが役者だと思う。集中力が途切れた時は、顎を引き、腹の空気を入れ替える。

知り合いの美術家の作品を手伝った時、「周囲から取り入れた情報へのリアクションとして自分の表現はあると思う。できるだけアンテナの感度を上げて、どんどん取り入れてどんどん出していける、装置として自分は有りたいのだ」と言った事がある。あれから1年が経つが、未だに自分の表現は、生まれてきた理不尽さに由来する、周囲への言いがかりに過ぎないと思う。

ただ「それでもいい」と思うようになった。自分は大概のものが嫌いだ。自殺はしないが、自殺的行為をするのは、それで死んでも構わないという事である。それぐらい嫌いだ。なんとか乗り越えて人生を大切にしたいと本気で思えるようになるまで、違和感を表明し続けよう。生まれてきた理不尽さと、死ぬことのかけがえの無さにこだわっていこう。ほんとうに肯定的な表現ができる日までがんばろう。そこにたどり着く前に誰かが殺してくれたら、それはそれで有り難い(というのは弱過ぎる態度ではあるが)。やる気にさえなってくれれば、本当に発狂するかどうか捕まえて拷問する事もできるだろう。そんな事をしてくれる暇人もいないだろうし、まあ、嫌だけど。

追記
絶対笑わせてやるかんな!覚えてやがれ!