天悟とぼく

土日はTilleulを開ける。すし谷さんが「天気いいねえ、景気悪いけど」と言っていた。その通りなので「その通りですね!」と応じた。


1Q84』BOOK3を読み終わった(以下ネタバレあり)。先日書いた「何か変」な感じは「情報の乗り物としての自分」という表現だったり「目に見えないが存在する、善悪を超えたバランスをとる仕組」だったりが自分の考えにしっくり馴染んだからだと思うが、多分主人公の一人「天悟」と自分の共通点が有ったからだと思う。自分は今年で29歳になり、定職にはつかず、作品をつくろうとしている。女性との付き合いに対する考え方や態度も似ていた。もちろん違うところも沢山あるが、何より一番異なっているのは「青豆」という唯一無二の存在を知っている事である。

同じように共通点を感じる人は多いだろう。ただ決定的な違いゆえ、感情移入が出来ないまま物語は収束していった。BOOK2の嵐の夜が終わると、後は「主体がどう変容するのか」だけが読書における興味の大半となった。天悟と青豆が物語の中で出会ってからは「早く終わんないかな」とまで思った。

・愛において私の主体性を根拠づけているのは、私が「愛されている」という受動的事況だからである。
・私自身によって全身を満たされていることによる私のこの窒息状態(encombrement de soi) からの解放はエロスによってもたらされる。
(『レヴィナスと愛の現象学せりか書房)より 内田樹の研究室から引用

性交は「小さな死」であると、以前どこかで目にした覚えがある。それは行為における単なる忘我状態を指すのではないのではないか。主体性の変容を指しているのではないかと思い、『1Q84』で、特に男性(天悟)においてどう表現されるのか、興味があった。物語の中でその行為が行われたシーンの描写は、残念ながら(というのも変だが)一般的な交わりとは程遠く(根底では繋がっているのだが)、天悟は混乱の中で行為を終えた。やがて真に自分が愛するものと交わった事を理解し、愛するものが新しい命を宿した事を受け入れた彼は、成すべき事をした事を理解し、今後何をなすべきかを理解したものとして、安定・充足したように見た。

真に愛する者を見つけ、相手からも愛され、一心同体となり、その状態を保つというのは大変な事である。それはちょっとした油断で容易く壊されてしまうかもしれない。何が大切かを常に見極め、周囲へ注意を配る必要がある。敏感で脆く、最も貴重なものである。

知っている事、というのが主体性の変容の必要条件だと思う。変容の仕方は傍目には人それぞれだろうが、基本的に主体は安定するのだと思う。如何に知り、如何に成し、如何に守るか(もしくは如何に気付かず、如何に間違い、如何に滅ぶか)物語の基本はそういう事なのかなと思った。

今回は関心が絞り込まれていたので、自分なりの答えが出た時点で興味が薄れてしまったが、それなりに村上春樹の世界を楽しめたとは思う。BOOK4がもし出るとしたら、二人の子供は26歳位になっているかもしれない。リトル・ピープルの力(というかシステム)が全ての世界に存在するものだとしたら、別の世界への入口が再び開き、ふかえりのマザが登場するかもしれない。天悟と青豆は恐らく子供を守りきれないだろう。今度は子供が何を選択するかが問われるだろうと思うから。
追記
天悟が父親に言われる「話さなければ解らないやつには、話しても解らない」というセリフが印象深かった。身に滲みて忘れないようにしようと思う。