影響されやすい男


どうにもならない事はあるもので、澱のようなものが少しずつ溜まっていく。溜まるものは溜まるのである。どう処理するかが問題だ。色々な方法が有るだろうが、自分は「新しい経験をする事」で対処した。以下はその記録である。長く、特に目新しくも無く、意味も無い事を先にお詫びしておく。

夕方、砧公園に向かう。特に目的は無い。初めての場所で、ふと思い浮かんだ場所だった。歩いて行きたかったが、夜の散歩までに戻らなければならないので自転車で行った。
以前自由が丘に向かった時のように、井の頭通り→環八だと簡単なのだが、google先生が示す最短距離の徒歩ルートで行ってみようと思った。最短距離を出来るだけ真っ直ぐ走りたかった。風が強かった。

井の頭公園を横切り、三鷹市牟礼(ムレ)に出る。人見街道に入ってしまうが途中で見限り、東八道路に出る。天神さまを横目に久我山に向かった。幹線道路を少し入っただけで、ほとんど田舎の風景と変わらない。畑の脇をゆっくり自転車を漕ぎながら、自分が東京にいるとは思えなかった。自分がいかに偏ったイメージで東京を見ていたか解る。神経を集中させて進む。目にする風景や人々、地名や店の看板が、いちいち意識され、反射的にイメージが返ってくる。

やがて環八に出る。この道行きは自分にとって何か重要なものが有り、それを信じようと思った。緊張した。あ、あれかと思いきや芦花公園だった。まだ先だ。工事の為に干上がった川を見て、飛び込む事を想像する。頭にタオルを巻き、半袖のパーカーとハーフパンツ、サンダル姿の自分を意識する。手首のゴムを擬人化したりしてみる。頭のタオルを巻き直す。

砧を示す表示が見えた。そろそろ反対側に渡ろうかと思ったが、地図を見るとまだ先だったのでそのまま進む。しばらく進んでも見当たらず、気付かず通り過ぎたかと不安に駆られる。トイレに行きたくなっている。三本杉の表示を見て、過ぎた?と思うがもう少し進むと反対側に砧公園があった。

訳もなくちょっと泣きそうになった。感情的になっている。駐車場のトイレで用を足す。家を出てから1時間程経っていた。ここで自分は何を見つけたらいいのだろう。判らなかったが、見つからなくてもそれでいいと思った。周りをよく見ればそれでいいのである。
公園は広く、暗闇が多かった。世田谷美術館は入場無料だったが、既に閉館していた。しばらくの間、美術館の外でライトアップされている木を見上げた。
公園内を一周するサイクリングロードを見つける。ゆっくり一週する事にした。先は見えず、暗い。大学の寮の近くに有った公園を思い出した。公園の外縁を大きく周る。内側の広場が月明かりでとても綺麗に見えた。外側には外環道路や高速道路が見えた。道は木に囲まれてほとんど真っ暗だ。自転車のライトだけが道を浮かび上がらせる。一人で粛々と進む。緩やかな傾斜があり、沢山のカーブがある道だった。次は走ってみたいと思った。
美術館のところまで来た。一周したのだ。自販機でコーヒーを買って飲み、公園内のグラウンドで子供たちが本格的なサッカーの練習をしているのを眺めた。缶を捨て、公園の入口まで自転車を押す。軽くストレッチをして、帰る事にした。

帰り道、自分が何か変わったか考えてみた。あのサイクリングロードの暗闇を抜けて、自分に起きた変化とは何か。もちろん超自然的な変化が起こって、額の傷が消えたり、性別が変わったりする訳ではない。ただ前よりも、信じる事の重要性を認められるようになっていた。

初めての体験をする事でのみ、人は変わる事ができると思う。単に新しい情報を得るという事とは違い、体を使う事がポイントである気がする。純粋な興味をもってその体験をすると、自分が更新されるような感覚になる。その感覚を持つだけで、無意識に溜まった澱のようなものが、多少なりとも消えるのだ。

だがそういう事とは別に、信じる事は自分に必要だと実感した。信じる対象は自分の感覚なのでうまく言えないが、それをしなければならないと感じた事をすると、何かを得られるという事なのだった。したいからではなく、しなければならないと思い込む。それは論理的であってはいけないのである。その結果実際に何かを得られたら、どんな小さな事であれそれは既に奇跡なのである。

自分はいつかもっと大きな奇跡をつかみたいと思った。掴めなくても、奇跡に繋がる出会いを求めたいと思った。論理的な(意識的にできる)努力とは別に、非論理的な感情を注視していたいと思う。