好き


♪4つのつり目の2♀といったらピカチューとオニのあふりらんぽぽう!
最近、気を抜くとこれが脳内再生される。CD、diskunionに無かったのはAmazonで買った。気に入るといつもこうだ。だからいつも金がない。

自分にとって大事なのは作品よりも作者である、と言えるかもしれない。絵でも音楽でも陶芸でも料理でも物語でも。映画でも建物でも工具でも機械でも。芝居でもダンスでも会社でも野菜でも。作品に表れている「どんな人なの?」というのが最大の興味であり関心事である。表れていない部分は理解できないので、やっぱり作品しか見ていない、とも言える。

好きには消費する好きと共有する好きがある。前者は主に作品に対しての一方的な好意であり、後者は人(作者)と時間を共有する喜びである。時間を共有する際に浮かび上がる要素はお互いの人格だ。自分の場合、全てを理解できるとは思わないし、しようともしないので、作品が好ましいものであれば、人格はあまり気にならない。自分の人格が合理的な面では破綻しているという引け目もある。(「皆大なり小なり矛盾はあるでしょ?」という開き直りもある)

好きなものを取り入れようとする行為は、ニーチェの言う「力への意志」みたいなものなのだろうか。自分の力を増大させたいという欲望なのか。
それは知識を得て色々な見方、考え方を知る事とは少し違う行為である。バランスを取るために好きなものを取り入れようとする訳ではない。生存確率を上げようとしてする訳でもない。優位に立とうとしてする事でもない。
やっぱり、気持ち良いからする行為としか思えない。発見する喜びがあり、作者への感謝と親近感、敬意がある場合もある。生きる喜び、思い込みがくれる活力。結果的に生存確率が上がったりするかもしれない。

先日twitterで「ホラー映画はあまり怖くない」と書いたが、怖い事は怖いのである。でも映像は客観的なので、作者の意図が見えない部分が少ない。小説の語りだと一緒に流れに乗って進んでいく感じがある為、書かれていない部分を味わう事ができる(いわゆる行間を読む的な)。怖いものは主観的な表現の方が怖いのである。

ともあれ味わえる形で表現してくれる人を自分は好きである。

一気に消費した好きは、大概共有までいかずに、心の中に沈み込む。

自分も味わえる形で表現できたら、共有までいけるかもしれない。

追記
今日も放談やらかしました。てか解散ライブ観て好きになるってどうなのよ。