消費

初めて一人で行った海外は年の暮れのギリシャだった。アテネでは工事中のパルテノン神殿を見て(自分は工事中によく出くわす)、穴だらけの道路を見て、孤独なトルコ人と話したり、ボッタクリバーでぼったくられたりした。ミコノス島では猫を探して歩いて(旅の唯一の目的だった)、クリスマスの賛美歌を聴いて、結局猫はあまりいないので突端で海を見ていた。孤独な旅だった。
そこで感じた事は、自分はどこにいても変わるものではないという事だった。とりあえず一人でぼーっとするのが一番楽なのは間違いない。どこにいても、何をしていても、いつもそうなりたい。
そして滞りなく流れていたいと思う。他者との共同作業や関係においてもそうだし、道をゆく時もできるだけ互いの行き先を邪魔したくない。そうする為にどうすればいいかというと周囲の観察を怠らない事だ。他者と自分の相対的な距離関係、人間関係、他者の表面に現れる動きを「現在」として把握するよう努め、深部は覗き込まないよう注意する。
だから情報の流れの中にいても、横目で流してすぐに忘れる。もしかすると2歳未満の幼児のように、積み重ねていく事に興味が無いのかもしれない。本当によく忘れる。記憶してないという方が正しい場合もある。
逆に留まり、こだわり、ぶつかり合う生き方が面白い事もある。作った映画、芝居、仕事上の作品制作といった、自分の志向性にも関わる事では没入して周りが見えなくなったり、苦しんだりした。主体的にある一点に踏み止まるとはそういう事である。人間関係においても。

このブログでも何度も書いているが、基本的に流れるのを良しとするのが自分の性向で、それに則った生き方をしてきたと思う。ただ最近思うのは自分が消費ばかりしているという事である。それは時間であり金であり情報であり…体験そのものですら消費が多い気がする。
自分が一人でいる時にしている事の大半は、他人には見せられないようなみっともない事だと思う。ブログやtwitterで書いている事なんて(しょうもない内容が多いけど)本当に一部である。そういう意味で人前に出てがんばっている人というのは、外見だけでなく、本当に見好い精神をしてるんだろうなあと思う(もしくはみっともない事を隠すのがとても上手い)。

流れていても、少しずつ溜まっていく何かはある。以前書いたそれはストレスの一種だが、ここでいう何かは人格を作るものである。人生は人格修養の場、とかいう話じゃないが、間違いなく自分の行動の結果、それは形成されるのだと思う。
ちなみに消費ばかりして人類に有益なものは何も生産できず、ただ生き延びている自分に価値がなく無駄だと思い込むと死にたくなってしまうので注意が必要だ。やることなすこと全て間違いとか、死んだら全てが正解に収束する(俗にいうラクになるというやつ)とかは思い込みである。
幸い妄想に取り付かれる気質ではないが、自己肯定してるだけでは始まらない。ではどう人格を形成するかというと…身体的な老いが関わってくると思う。視力や聴力も低下してきているが、インプットに表面上の不明瞭さが増す事で、逆にそのものに捕らわれない受け方が出来るような気がするのだ。決め付けが減るような気がするのである。
思い込みに気をつけつつ、老いから来る知覚に出来た余裕を生かして深みのある人格を形成したいと思う。そしてもう少し「よい」と思えるアウトプットを増やしたい。これでも元々は「人類の抱える問題の解決に寄与しないと生きている意味がない」と考える子供だったのだ(だいぶユルくなったなあ)。
まあ自分は死んだ祖父に呪われているらしいし、寿命の許す限りの努力ではあるのだが。寿命とかいったら皆一緒だし。