オハヨウ


前の晩に↑を観たからという訳ではないが、今敏の『千年女優』を借りて観た。舞台化されているのは知っていたが初めて観た。予想とはちょっと違い、女優の狂気というより、めくるめく映画の世界を追体験する感じと女優の追いかける一途な思いが良かった。我ながらありきたりを言う。

その後『パプリカ』を観た。これは2回目。筒井康隆原作。前回は夢の世界の描写と悪夢感を楽しんだだけだった。今回は監督が死んだ後だからか、印象がまた違う。筒井康隆は天才だと思った。改めて腹の底からそう思わせてくれた。
DVDに入っていた、本編前の新作情報の中の『時をかける少女』も筒井康隆原作。細田監督の「時かけ」も観る度に泣いてしまう好きな作品である。筒井康隆の小説は発明として完結しているが、あまりにも魅力的な世界であるので、世の(特に)男性はその世界で遊びたくなるのである。
優れた作品は、時に優れたおもちゃでもある。作家性にもよるのだろうが。少なくとも筒井作品には「自由に遊んでくれて構わんよ」という開かれた態度と突き放した遊び感覚を感じる。特にアニメにすると、原作者とは別の監督の世界観がモロに出る。こだわりが強ければ強いほど出る。

むかし押井守作品を観て思ったのは「好きな事やっていいんだ」という事であった。兵器マニアで、アフォリズムを好み、『甲殻機動隊』シリーズ等では飼ってる犬がやたら出てくる。アニメはキャラクターも背景も「描く」事が出来るので、基本的には限りなく好きなように出来る。
今回『パプリカ』を観て思ったのは、「自分一人で完結しなくてもいいんだ」という事だった。自主制作とはいえ、映画という集団作業をやってきたくせに今更恥ずかしいような感想ではある。これは自分の性癖にも関わってくるかもしれない。いじられるのが好きなのだ。
性癖といえば完全に個人的な話だが、自分一人で圧倒的な世界観を構築するのは難しい。でも他人に遊んでもらえるアイディアだったり、自分の身体そのものだったり、情報だったりがあると嬉しく感じるのが自分の性質のような気がする。受身でやらされてる感の無い、純然たる喜びである。特に時間をかけた作品がそう扱われたら嬉しいだろう。

(↑『夢みる機械』の前の遺作ともいえるアニクリ)
真剣に遊び、楽しむのも相当難しい事だと思うが…ともあれ自分の主体性、全体性、客観性とかそういうのを考える以前に、他人に遊んでもらえるかどうかを自分は考えた方が性に合ってるのではないかと思ったのだった。
「夢と現実」にこだわり続けた今敏は本当に尊敬して止まない監督なのだった。