PCと犬と人

最近PCが壊れた。何本か映像編集をやらなければならないので、別のPC、別の編集ソフトで作業する。PCによって処理速度も違うし、編集ソフトによってできる事も違う。動画処理はPCへの負担が大きいので、動かしてみて「これ位なら連続で指示だしても大丈夫(フリーズ)しないな」「おっとそろそろセーブしないとやばそうだ」と付き合い方を探りながら目標を目指す。とても時間がかかる事も多いが、ある条件においてできない事はできないのだから仕方が無い。

自分が散歩をしている犬「フクちゃん」はラブラドールレトリバーだ。体重も40kgあるし、力も強い。臭いへの執着が一般的な犬より強い(らしく)、気になる臭いを嗅ぎ付けると全力で嗅ぎにいこうとする。「散歩、大変でしょう?」と他人には言われるが、実はとても楽である。何故なら自分もフクちゃんと一緒になって走ったり、止まったりしているからだ。最初は加減も散歩の仕方も分からず大変だったが、今では殆ど力は使わない。

編集をしている時のPCへの対応と、散歩をしている時のフクちゃんへの対応の違いは何か考えてみると、ほとんど差は無いような気がする。フクちゃんは臭いに夢中になり、車が来ている道路に飛び出そうとする事がある。この時ばかりは力を入れて止める。一見、犬が致命的な行動をしないよう自分が制御しているように思えるが、そう頻繁にある事でもないし、轢かれる刹那には咄嗟に避けるような気がする。
PCは指示された事をするだけのものなので、自分から致命的な行動をする事はない。自分がPCの状態を見誤り、負荷をかけ過ぎた時や、扱いを間違った時にのみPCはフリーズしたり、挙句に故障するのである。これは犬に対しても同じ事が言える気がするのである。致命的な何かが起こる原因は、いつも自分の側にある。

それ以外の明らかに異なる点は、自分と対応するものとの関係であり、対応するものに対して持つ自分の感情である。一方は道具で、一方は別の生物だ。2つの関係には大きな隔たりがある。だが自分の感情に関して言うと、これが結構あいまいなようなのだ。好意というのは自分の思い通りに対応するものが動くと起こる感情だが、思い通りに動かず苛立ったりする経験も重ねていく内に対応するものへの理解が生まれ、やがて愛着になったりする。量の差こそあれ、その感情には対機械も対生物もそんなに違わない気がするのである。量の差など、個体差に等しい。

そこで他人に対して考えてみると、これまた同じような事が言えるようなのだ。日常生活において対応する他人は、全く知らない人から家族友人同僚恋人と種類は色々あるが、日常的な対応の仕方においては機械や他の種類の生物への対応とそんなに変わらない。愛着の量の差は経験の差に過ぎない。相手が自分にとってどういうグループに属するかという前提こそあれ、実際に普段対応する時には利己的、時には機械的に対応するのが常である。会社などのルールから、家族でなんとなくしてはいけない事まで、殆ど無意識に刷り込まれて対応している気がする。

人はそういう風にできているのではないだろうか。少なくとも自分は、気を抜くとすぐに考える事をやめ、やめた事すら意識せず、ほぼ自動的に動いている気がする。それが社会に生きる自分の性のような気がしてならない。