心の生理

カラダが生きている限り、自分は絶え間なく生まれてくる。自分のおおもとは生存本能に付随した自意識(「お腹が空いた」「お腹が痛い」他、たくさん)だろうが、人間は社会的な生き物なので他者との差異に起因する自意識(現状の人間関係における自分、何らかの刺激を受け反応する自分など)は種類も数も無数にあり、意識すらしないものも含め、これまでの経験の延長線上、「今ここに生きている」先端に新しい自分を作り続ける。

それでいて常に自分には整合性を求めようとする。アイデンティティとは、時に矛盾するようなものでも「それが自分なのだ」と思えたらそれで成立するものだ。新しい経験は、自分を変化させる事で受け入れ、変化した自分を新たな自分と認識する事で完結する。変化と整合の繰り返しが生きているという事なのだともいえる。

では意識を失っている時はどうだろう。眠っている時、気絶している時。一説に夢は起きている時に得た経験情報の編集、圧縮作業中に知覚できる形で現れるイメージであるという。イメージの材料は感覚器官から得たものなので、感覚的には現実と変わらない。違うのは一般常識、論理的な原因→結果に必ずしも合致しない事くらいだ。夢を見ている時、人は無意識に経験を消化している。

自分で自分を変化させようとする行為、それが「表現」だ。自分を変えるという事は、(自分にとっての)世界を変えるという事にも等しい。これは夢が作り出すイメージとは違い、とても自覚的なものだ。そして時間がかかる。人間社会において最も経済的(習得さえしていれば道具も他者の手を借りずに使える)な表現は言葉である。しかし言葉を組み立てるのには規則が必要であり、理解する時間がかかる。一方五感で直接受け取れる表現は瞬間的に理解できるが、こちらにもより効果的にする規則があり、いざ表現しようとすると時間がかかる。

その内、目的が表現する事それ自体になったりする。表現は人間が生きていく為に必要不可欠だが、本来は自分を変化させる(生きる)事が目的だ。しかしその時の自分(や気持ち)を留めたり、延命させたくなる事は、日常的によくある事だ。これは生まれては消える自意識のあがき(消化不良)みたいなものだろうか。少なくとも記録の中にいる自分は、既に今現在の自分とは違う。

それはそれで、必要なのだと思う。些細な事でも表現として吐き出す事で、捕らわれから解放され安心して忘れる事ができるのだと思う。絶え間なく生まれる自分を表現する事で処理する。それが心の生理作用なのではないだろうか。外部刺激→消化吸収(時に消化不良)→表現という流れは、カラダの基本的な生理に似ている気がする。もし魂が存在するのならば、それは宿るカラダの仕組みに影響を受けるのかもしれない。

(なんか書きたかった事からずれていっているような…考えた時にすぐ書かなかったから、腐っちゃったのかもしれない)