暗くていい
人工的なものに飢えている。特に機械とかじゃなくて
動画あり。肝試しの脅かし役的な楽しさってあるね
実務でいきましょう
ナイス。だが金は無い…
計画停電だなんだといって今日はパチンコ屋も営業自粛。普段明る過ぎると思う外灯も消されていてとても目に優しい。このまま節電が続くといいな。「日本の原発は安心だから作らせて」と言っても、もう厳しいと思う。福島原発の困難なのは地震と同時に電気が落ちたからだと大前氏も言っていたが、「大地震が起きても自動停止せず、太陽光発電で動きます!」なんつっても無理だろう。
電気代の値上げをしようなんて話も出ているが、この非常時が長引けば長引く程「発電に頼らない手を捜そうぜ」となると思う。電力を前提にした夜の都市設計が見直されるかもしれない。自分は明るいところが苦手だという事もあるが、日中の明るさを蓄えて夜に明かりとする蓄光っていいなと思う。ちょっとググッただけでも有田焼の技術を生かし高輝度発光を可能にした蓄光磁器とか高輝度長残光性蓄光顔料とか出てくる。数十分蓄えただけで一晩中保つとかすごいじゃない。自分は独り身の男だという事もあるが、暗闇も好きだ。月がよく見える。
(以下妄言というか思い出)
一気に妄言にいくが、もし「ぼんやり明るい夜でいい」という都市設計が採用されたら、だんだん人の内面の闇も当然のものとして認められていくかもしれない。これは「世界一安全な国」と言われる日本だからこそ到達できるかもしれない社会だ。人間の心理には光と闇があり、闇は「犯罪の根源」なんて言われたりする(動機はタイミングに過ぎないとか)。また物語、映画、漫画でも「光vs闇」なんて二項対立を持ち出して解かり易くする方便にするものも数多有る(そのくせ「誰の心にも闇はあるのだよ」なんつって)。
だがそうやって心を分ける事自体が自然にそぐわないと思う。分けるまでもなく当然のものとして認められる社会を目指すべきじゃないのか。「ぼんやり明るい夜」を共有するには、それでも犯罪は起こらないという信憑性がなくてはならない。暗いところが落ち着くなんていうのは自分の部屋で独りでいるから、また「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」のように信頼できるスタッフがいるから成立するのだと思う。
人は恨むし妬むし間違うものだ。それを前提にした社会という幻想を共有できたなら、こうあるべきだなんていう押付けからも自由になれるのではないか。差別、偏見も「間違い」に含まれるが、例えば心療内科に通う患者。なぜ通うのかといえば生き辛いからに他ならない。そもそも元の気質に対して理解ある社会だったら、病気なんて言われないのではないか。
自分は妖怪が好きだった。京極夏彦の小説も好きだった。闇の中に置かれた人間が想像力たくましくして生まれたもの、しかも他人と共有されるものだからだ。『ゲゲゲの…』がヒットしたからとかいうのではなく、そもそもそれを好きになっていけない道理はないと思う。そういう事とは別に、自分がそれらが好きになった原因は、幼少時の「夜中のおしっこ」体験にある。
おねしょがなかなか直らない子供であった自分は、寝つきの悪い子供でもあった。今では考えられないが、寝る前に見た影が自分をさらいにきた宇宙人の影では…なんて気になって寝られなかったり(結局満月の夜の部屋のカーテンの影だったり)。おねしょしたら親に怒られる!という思いから(実際は怒られる事もなかったのだが)、なかなか寝られないまま時間が経ちトイレに行きたくなると行かずには居られないのだった。でも暗闇が恐い。
なんだ、カーテンの陰かなんつって安心してもきしむ階段を降り、他の家族が寝静まった真っ暗闇の中トイレに行くのは恐ろしかった。最初は「一階に降りてスイッチを入れて…」と理性に頼るが、それなりに刷り込まれてるので「あの映画に出てきた怪物的なやつが」とか「自分に縁のある死人の霊(ひいじいちゃんとか)」とかがいきなり立ってたらどうしようと考え始める。
落ち着け。僕はおしっこがしたいだけなんだと言い聞かせ、ようやくトイレにたどり着き、ちゃんと明りもついて用を足す。おねしょをしてしまう自分の情けなさを考えている(どうすればおねしょしなくなるのか判らない)と、段々腹が立ってくる。なんでこんなに恐い思いをして、それでもおねしょしちゃうんだ僕は!と。
ある時勢いでトイレを出る前にトイレの電気を消した。恐い!と思うのは一瞬で、目を開けたら段々物が見えてくるし(暗順応)「死んだひいおじいいちゃん、今なら出てきてもいいよ!」なんて念じても何の音沙汰も無い。なーんだなんつってトイレを出たら、玄関のガラス戸の向こうに外灯に照らされて「しんしん」と降る雪景色が見えたのだった。
その美しさというか好ましさに感動した子供の頃の自分は、完全に暗闇に同化していたと思う。自分が守られている存在だという事すら知らず「なんだ、夜は味方じゃないか」とすら思っただろう。
例の如く長くなったが、その時感じた安堵感は今の自分を形作っている一つだと思う。暗いから星が綺麗に見えるのである。「誰でも闇に落ち得る」という表現はレトリックだが、「闇も自分なのだ」という実感を、幼心に感じたのかもしれない。ほどなくおねしょはしなくなった。
(妄言というか思い出終わり)
似たような経験、した事ないですか?暗闇に浮かび上がるものを美しいと感じないだろうか。多分自分の人嫌いも人好きも元々はそこから来ている気がする。どうでもよくなったのだ。
薄暗い吉祥寺は好ましかった。走ったら汗をかいた。
静岡に地震があった。とりあえず風呂に入った。
うちのユニットバスは照明と換気が一つのスイッチだったと思い出して風呂を出た。
(今日のtwitter)
テレビの情報に対する生理的な不快と、震災に対するショックが混ぜこぜになって見分けがつかなくなってしまうと、気持ちの悪さが身体中に広がるけれど、その気持ちの悪さは、震災を深刻に受けとめているからというより、実は、質の悪い物を無理矢理たくさん食べさせられているから、かもしれない。
非常時は本性が出る