習慣

「いいときに悪い芽が育っている」とは元巨人軍の藤田監督の言葉らしい
きっと「悪い時にいい芽も育っている」のだろうし
「いい、悪い」を決めるのは視点や尺度なんだろう


宇宙の歴史とかミクロコスモスとか
自分とは違う視点と尺度で見るとドラマチックだが
結局それは日常でしかない


サイモン・ベイカー超かっこいいよ〜」と勧められて
アメリカの刑事ドラマ『メンタリスト』など観ている最近です。
観察することでその人の心理を読み、巧みに操ることができる“メンタリスト”
キャラ設定や演出として「コイツはすごい!」と思わせる事が要るので
やっぱり仕組は完全にはわからないようになっている(多分)けど
それでもドラマのキャラクターは「わかりやすくなければならない部分」が多いと思いました。
韓流もそうですが、ありえなそうな設定でも、その「わかりやすさ」を納得できれば楽しめる。

誤解を恐れず言ってしまえば
映画のキャラクターは「わかりにくくていい部分」もある。
はたから見ていて?が付く行動をしていても「そういうものかもなあ」と
非論理的な行動にリアルな人間の感情を感じられれば楽しめる。


舞台の場合はキャラクターうんぬんというより
目の前にいる「人間の居方」をリアルタイムに観察できるのが一番楽しい。
やり方の違いをどうこう言うつもりはないですが
日常の自分のキャラクターを考えてみると
観客がいるかどうかの違いは大きいがキャラはキャラだなと思う訳で


最近ブログやtwitterなどネットでの活動をしなくなっていて
それは習慣の変化でしかないのだけれど
ネット上で「まだ世に出てないもの」を出す人になろうとして
「情報の取り扱い方」で演出してるようなところがあり、
キャラとしては自分で創作できる部分が多い一方


ネット以外の部分では会って話す人達との関係性の中に
キャラクターが育ってきていて、それは自分の意志とは別物なところもあり。


例えば女装キャラを長くしていたら、横丁で飲んでいる時など
女装をしてなくても隣のおじさんに甘えている自分がいたりして
それは自分の中にある「女」というか自分がイメージした「女」なのだろうけど
「なんじゃこりゃ」と自分でびっくりしたりもする訳です。


キャラからワタシの話になってしまいましたが
世の中、創作も非創作も混沌としていて
人間は日々色んなキャラを目にしながら
共感したり反発したり喜んだり怒ったりしてる中で
表現って大事だな、楽しいなあと改めて思った次第であります。



長い事ブログを書いてないと吐き出されない言葉が溜まり
やっぱり気持ちが悪いです。ノートに書く日記でないところは
私の性格かもしれませんが


そうやって生理的に吐き出される表現が、排泄物だとは思いません。
世に出た時点で全ての表現は自分だけのものではなくなる気がするからです。
また「人生に意味はない」と再三ここでは書いてますが
「全ての表現には意味がある」と思います。それは生き物の生きている証であり
作品までになると、後で振り返った時自分が生きていた実感を持てるからです。
なので人生そのものを表現として捉える事ができたら
「人生には意味しかない」とも言えるかもしれない。


ある人に「表現者として大成したいと思わないの?」と訊かれ
考えた事がなかった私はやっぱり自己満だったのだと思いましたが
例えば文章を書く事で何か発見すると、それはとても楽しいです。
映画を作っていてもそうだったし、自分が面白がってるものを他人に見せたら
他人も面白がったり嫌悪されたりするのも、また発見でとても楽しかった。
役者はやってて楽しかったのかと言われると
表現までいけなかった為、苦しかったです。
でもずっと恥ずかしかったけど、やっぱり楽しかった。


辛い過去で心に傷を負った、天才的な"メンタリスト"を
甘くてハンサムなサイモン・ベイカーが演じているのは
とても理に適っているような気がして
観ていて気持ちよいです。かっこいい。


回りくどいのは私の習慣というか機能です