距離

私は代替可能な自分という考えに囚われていて
何をするにもその時それをするのに相応しい人がすればよいと思い
その判断基準の想定の仕方において、ようやく自分を認識できる程度である。
生き物は世界の要素として、各自完全には制御できない形で出会い、繋がり分かれたり死んだりしているのだと思う。
結果的にみれば全てなるべくしてなった事とも言えるが、一方でそんな物言いは大変不快なものである。


そんな私が何かしたい時、基本は急がば回れである(肉体的・精神的に素面の時に限る)。
最も早く目的地に着く為に、最短距離を真直ぐ行くのは理想であり(急ぐのはエゴである)
世界は自分一人のものではなく、時には道を作る必要もあり
他人の動きを見て、できるだけ他人の邪魔をしないように
自分の進行方向や速度など調整していくのが現実だと思う。


言葉通り一人道を行く時なら、見るのは周囲の動きだけでいいが
一般的に人が何かやろうとする時には、関わる人達の
培ってきたものや趣味思想、思惑、自分との関係性など、色々と見る必要が出てくる。一人では到達が困難な目的の場合、共同作業となる。
大概人は様々な共同作業をしながらそれぞれの人生を進めており
目的によって共同期間は一時的なものから一生かかるものまで様々に、同時進行である。
その間、私は何であるか、何であり続けているのか、問われている。


いついかなる時でも頭の中はカオスである。外部刺激と感情と思考と心の状態が連動したりしなかったりしながら動いている。3月は自殺者が多いと聞けばもっと生という名前が増えればいいのにと思ったりもする。基本的に安直なのは楽だからである。


先日、久々に観た芝居は登場人物達がみな立派だと思った。
立派というのは行動に明確な動機や理由があり、それが他人に解るものであるところだ。基本的に物語にはあまり興味が無い。


私が説明不可能な理解し難い表現や行動に惹かれるのは
気でも違ったかと言われるような異常な状態の時、何をどう感じているのか
それをする人と私との距離を埋めていく作業が好きだからだと思う。
異常な状態というのは日常的に誰でもあると思うのだが
それがずっと続いているように見える人には興味がある。
異常(と思われる)状態に居られる技術というものもあり
まるで宇宙服みたいだと思ったりする。


距離を埋めようと自分でもやってみると、行けない所があるのだと実感する。
それは余りに違い過ぎていたり、厳しい努力を続けられたらあるいは、だったり様々だが
諦めるか続けるかはさておき、やる事で自分の限界値が変動するのは確かである。
現在の値を知る事で自分の今の立ち位置が明らかになったりする。
世界と自分との境目や、自分の内側と外側との境目、その時々の限界地点が変化すると
見える景色が変わってくるのがまた面白いと思う。


芝居を観に行く電車の中で、石田徹也の特集号を読んだ。
いや、頼まれて必要な資料をピックアップする作業をしに出かける途中だったかもしれない。
資料にはある人物の過去の活動の記録が書類やメモや文章や写真やイラストや切抜きなど
30年分位あり、有り難い事に整理されていたので必要なものは割とすぐにみつかったが
作業途中に目にするものから、いちいち当時の思いや表情など伝わってくるので
大変疲れた。でもスクラップブックや発言集などを作る人の気持ちも判る気がした。
感慨深いのだ。


石田徹也だが31歳で電車に轢かれて亡くなった画家である。
遺作集、全作品集を持っているが実物はまだ観た事がない。多分多くの人が思うように、自分もこの人とは趣味嗜好が似てると思ったのだが、「幸せ過ぎて画が描けなくなるから」と恋人と別れたり(二人の信頼関係はそれ以降も続いたそうだが)、アウトサイダーアートを観て「自分が正気なだけに、オリジナリティの画では、彼らにはどうしても勝てない」というような事を言っていたらしい事だったり、やっぱりだいぶ違う人間のようである。ともあれとても惹かれる画家だ。死ぬまで忘れないと思う。ちなみに特集号というのは「美術の窓」の2008年11月号、吉祥寺バサラブックスにて購入。


人が感動する機能は、何の為にあるのか。
多分、世界と触れ合いたいという欲求を失くさない為にあるのだと思う。
もし何も見えず、聴こえず、嗅げず、味わえず、触れず、そんな状態にならない限り
生きているというのは世界との不断のやりとりの中に自分を置く事である。
使命というと大げさだが、生まれた以上世界に影響を及ぼす要素である義務がある。
バタフライ効果など持ち出すまでもないが、代替可能な自分でも義務を持って生きているのだと思う。