映像の役割

先日、舞台上の中村勘三郎を初めてテレビで観た。追悼企画というやつだ
才能の他に、文化や芸の力を感じた。生で観てみたいと思った


舞踏の大野一雄
ヴェンダースの"Pina"を観た時も彼女を生で観たいと思った
叶わなくなってから望む事も多い


田口ランディ『サンカーラ この世の断片をたぐり寄せて』を読んだ
子供の頃、雪に掘った穴の中に潜り込みじっとしていた事を思い出した
『コンセント』を読んだのは何年前だったか。この人は違うという印象があった
追っかけていた訳ではないが、信じられると思った


この人は違うって、何が違うのか。人が生きるとはどういう事なのか知りたいと思う切実さか
『臨床の詩学』出版イベントで握手してもらった。イベントの朗読でランディさんは泣いたのだが
握手してもらった時も心ここにあらずという感じがした。正直だ


僕は社会の変化にも関心があるが、自分の変化の方がずっと関心が強い
自分の人生の出来事にリアクションしてきた中で記録したいと思う事もあった
答を知りたいと思う一方で、自分で答を出す必要はないとも思う
記録した事で、いつか出会う事のない他人に繋がればいいなとも思う


先日の太陽肛門スパパーンのPVでは撮影前にバタイユの『太陽肛門』の解釈を読んだりして
梅毒病みで捨てられた父を見る子供の頃のバタイユの姿を想像したり
撮影では花咲さんやスパパーンのリビドーやエクスタシーを感じたりした
切実で馬鹿馬鹿しくてよい


撮影後の語らいで花咲さんが僕を「趣味が女装」と紹介した時
キャラにつつまれる感じがした
前川さんのワークショップで素の表現方法を学びながら
自分は正直な人達の中にいたいんだと思った事を思い出した


「自分がこうしたいからこうしたい」と正直にいてくれるから
誤魔化す余裕もないから演劇や映画や美術の世界にいる
いわゆる組織やそこに属する人が薄気味悪くて苦手なのは
ルールや組織内の空気を作り自分を隠してよしとしているからだ


正直でさえあれば、あとは何でもいいと感じてしまうし
居心地がいい。という事はここに居てはいけないのだと思う
映像は記録で、何を記録したかが問われるものだ
その事をまた、考えたい。「サンカーラ」と田口さんが生きている事に感謝