いきなり忘れる

Q.この体は自分の所有物なの?

僕の場合は「なぜ意識はこれと共にあって、ていうかなんで別のじゃないの」
と思った時点で自分の所有物だと思ってたくさい。

「親が行為した結果だから」
「世話をして育ててるから」と
親の所有物とされていなかったのは
幸せなことだと思う。
でも、自分が手に入れたものではない
気付いたらあったものだ。


Q.仮に自分の物だとして、それを好きに使っていいの?

自意識は、これまで過ごした全ての場において不要で
場が望む状態に「自分」は要らないものだったし
例えば一人でいても、体を物質として意識すると
その働きで周囲の色んなものと場が形成される
なんとなくその場に足りないもの、余分なものが感じられて
その為に行動したりしなかったりするものだ。


いい人ぶる訳ではないがそんな風に世界を感じている以上、
この体を自分の所有物として扱うのはどうも違う気がする。


A.この体は自分の所有物ではなく、管理物である
宗教的な意図はなく、そう思えたら色々大切にできるかもという
打算的な答えだ。そういう風に扱いたいという願望でもある。
*1

*1:疲れている時
「これまで会った人、経験した事は全て生きる上で必要だった」と思う
後期高齢者
「あれはもうできないがこれがまだ出来る幸せ」に似た作用が意識に働く
他には例えば
「あの人が自分の運命の人だったのだ」というのは違うかもだけど


どれも生き物が老いて死ぬ事を受け入れる為に必要な機能なんだと思う。
人間の集合的無意識とか、そんなものはない


さて、そんな風に決めつけてよいのか。
ゾンビのオヤジが明後日上京する。
オヤジが固執した昔出演した舞台のビデオ
ノイズがひどくてDVDにするのも骨である。
オヤジは固執するのである。


つまり僕とは気質が全く違う人間で
また違う答えを持っているだろうし、
親でありその体は末期がんなので
気が重くてこのブログを書いたらしいのだった。


タイトルの意味は多分
説明を放棄した言い訳だと思う。