椿と海の記

幼少時の、自然の営みに触発された夢想と、人や習俗の描写とが滑らかに行きつ戻りつ、明晰で控え目な視点と落ち着いた語り口には終始ブレがない。恥ずかしながら読めない植物名を調べながらもスーッと読み進められ、土地の言葉もイントネーションを伴って聞こえてくるような、無駄がなく豊かな文章だった。水俣三部作と呼ばれる本書では公害の事は殆ど書かれていないが、後に汚染する工場がこの土地に作られる事を示す一文が時折挟み込まれる。失われたものという意識が、描かれる生活の美しさを際立たせるのだろうか。季節毎に、極めて具体的な、五感を刺激する文章が淡々と綴られていく。詩情というのは、研ぎ澄まされた言葉で凝縮された全てに繋がるものであり、個人的な思いででもある。著者の中に生き、言葉に翻訳されたものの貴さに、手を合わせたくなる思いがした。