添い損ねる

前に酔ってつぶやいた言葉の鮮度というのは、気持ちから言葉にされるまでの時間であった。あと便秘に悩んでいたのであった。
言葉自体はツールとして概ね変わることはないけど、面白い、新しい、素敵という気持ちは時間が経つと何故そう感じたかわからなくなる。慌てて残してもつまらない事になるし、僕の場合は正確にしようとしてもいけない。夢を人に語る事に近い。表現とは自分が面白いと思う事を他人にも面白いとわからせる事だと誰かが言っていた。その前に、せめて自分が面白いと思えるようにしておきたいのは何故なんだろう。

誰でも自負する物語を持っているけど、物事に関連を見出して自分が納得のいく物語を作り上げているだけで、本来物事とはどうとでも捉えられる現象の連鎖である。何か繋げる事というのは、点が三つあれば顔に見えるみたいな人の脳の機能でもある。物語を他人に伝える事が上手くなれば、中身がなんであれ何かとうまくいく。物も売れるし、他人も動いてくれる。表現はまず伝え方が評価される。中身は大概どうでもいいことだからだ。
繋げる事に疲れると、なんの意味もない、物語もない、現象として時間を過ごす。よい景色に溶け込んで何も結びつけず、草木のようにそこにいたい。時に繋がりたい欲望に駆られても、経験が欲望をまろやかにしてくれる。逆もあるんだろうと思う。たまに焼鳥食べてビールが飲めたらそれでいい、それで十分なのだが、それもできない体になっていく。

こんなに天気がよくて、洗濯機がないのは少し損した気分だ。コインランドリーに溜まった洗濯物をリュック一杯、残りは捨てる。荷物の整理をしていると、ほとんどの物は生きるのには要らない。捨てがたいのは思い出があるからだけど、優先順位を考えて捨てる。祝日なので消防士が二人道端で腹筋させられている。あんなに目立つ黄色い服を着て、かわいそうだが、仕事だから仕方ない。小銭が無くてコンビニでビールを買ったら、身分証の提示を求められる。馴染みがないというのはそんなものである。
洗濯が終わるまで、公園で飲みたくなる。誰かに好きと言いたい。天気がいいというのはそういう気分で、ただの思いである。以前なら迷わずそうしていた。誰かと日なたでごろごろしたいのである。仕事をしていると思いを残したり気分に任せたりする事はないし、こういう事を書いたりする事もない。人生を単純にしてくれるタイムマシンである。僕にとっては都会の仕事とはそういうものだ。ビールを飲み終わり、オシッコしたいなと思いながら、陰干しにするズボンを持ち帰る。

自転車を漕ぐ影が目に入り、気付けば夕方である。髪は肩甲骨をとうに越え、腰に届こうとしている。この前huluで『かいぶつたちのいるところ』を観たけど、いい映画だった。何か他に思い出した映画もあったけど忘れた。伊丹十三の『しずかなせいかつ』で言われていたような、何も積み重ねないということに共感して生きてきたつもりだったけど、無意味や破たんがないものがどうにも居心地が悪い。髪を伸ばし続けているのは、矛盾を担保しておきたい我儘なのだろう。

陰干しするズボンは少し長過ぎて別に縮んでもいいやつだった。