酒乱

なぜ僕が酒乱になったかというと、元々有った性質が大きく、それは学校に通うようになってから酒を飲むようになるまでの間に、強固になっていったと思う。

その性質とはなんてことはない「認識への不信感」だ。学校に行くまでは、自分が認識したものが他人と違っていてもよかったが、正しい答を求められるようになり「自分が認識したものは、求められているものと合っているだろうか」と不安になった。算数ですら不安だった。ルールはわかっていても、計算して出した答が信じられない。エラーチェックを繰り返しするようになった。
酒を飲むと途端にそんなことはバカバカしくなり、酔いが深くなるほどに自分の世界が当然になって時に迷惑をかけるようになった。その内「人間は突然必ず間違えるものだ」とか「都合のよい認識をするものだ」とか知るにつれ、知覚もあてにならないし、経験も事実とは違い得ると思うようになった。覚めてる内は不安だった。

それでも自分が認識しているのは自分にしか当てはまらないことに慣れていった。経験は夢に働きかけ、また新しいことを知れば想像し、その繰り返しが認識=世界とアクセスすること で、それが正しい/正しくないというのは大人の都合でしかない。大人も自分の認識が正しいと思い込んでるだけなのだから、付き合う必要はなかったのだ。

映画を学ぶようになって、カットの繋ぎや音の使い方の基本を知った。その場で起きている全体が分かるカットからその場にいる人のカットに繋いだり、環境音と登場人物の思い出の中の音を繋げたりする。観客がどう認識するかを順番に整えていくのだが、それでも観客の認識は十人十色で狙い通りにはいかない。答え合わせをする必要はなかった。でも、認識のすり合わせができることは楽しいものだと知った。皆が違う世界に生きているが、時々共有できるものもあり、それが同じ人間とか生き物なんだと実感できる喜びだった。普遍性とか呼ばれるものを感じて喜んでいた。

深酒がやめられなかったのは、僕が怠惰で不確定要素を呼び込む可能性を捨てられなかったからだ。きっともっと決定的な何かがあるまでやめられないのだろうと思う。

その内、仕事が忙しくなり睡眠不足が続いた。望んだものではなかったが、必要とされることは有難いことと流される日々だった。気がつくと目も耳も鼻も悪くなり歳をとっていた。世界への興味は失われ、何かを記憶することもなくなり、想像しない頭も悪くなっていった。

ある休みの日、映画を観ていて「ああ、嘘は必要なんだ」と感じた。自分が認識する毎日には、人間性を感じられなくなっていた。心が貧しくなったということだろうか。何も感じない状態でいては、人間であることがうれしくもない。早く死にたいと思いながらこれまで生きてこられたこと、支えてくれた他人への感謝も感じられない。でも誰かが作った物語に感情移入することで救われてまた仕事ができるのだと思った。

泥酔すると小便を漏らしたり、怪我をしたりした。誰かを傷つけたりすることもあった。折角出会った他人たちは、僕から去っていった。映画を観て救われたなあと思う時も、一人で酒を飲んだ。感情失禁というらしいが、誰かに感謝したい気持ちとか、普段出せないものも酔っていると出せる。だから僕は死ぬまで酒を飲み、時に乱れるのだと思う。だけど、お礼はいつか返さなければならない。僕が酒を飲まない時は、そういうことをしていかなければならないのだ。

先日、母から電話があった。「急にあんたの声を聞かなければと思って」と言っていた。母はいわゆる霊感も強く、色々実証済なので、そろそろどちらか危ないのかも知れないと思った。もう母が認識している僕ではないのが悲しかった。その時も僕は酔っていて、お礼は返せないかもなと思った。