髪を切った

6年ぶりに美容院に行った
ワーニおじさん凱旋版という芝居の前
花の寺という人生初舞台で坊主にしてから
28歳の頃から伸ばしていた
父もまだ生きていた時間
発見に溢れていた日々
思い出すことは少ないが
歯を磨きながら自分の性的指向に気付いた
それについては眠いのでまた機会があれば

嘘を求めることが生きるということである
過去の文化を知らべて再現するひと
未来に必要とされるものを作り出すひと
現在にアプローチしようとするひと
皆「こうであったらいいのにな」「こういうのが好きだな」
という表現をすること、それが僕がいう嘘だ
他人は自分と違うという自覚がない人とは話せないが
夢の世界に没頭してしまうし(夢の中の他人は全て自分)
僕は誰も否定できない

知覚する世界は、自分が受け入れられる情報に変換される
自分に都合のよい状態になるように働きかけることもある
経験も思い込みもあまり遠くない。知覚自体が嘘みたいなものだ
それでも本人にとっての現実だ。一つ選ばれた大事にされるものだ
物への固執というのもそういうことからくるのだろう
嘘だけど、嘘じゃないのである

ちなみに僕は嘘が下手で役者をあきらめた
演技をするには粘土のような可塑性が必要だ
それはいいのだけど、外から見てどう見えるのかについて
興味がない為、他人に伝わる行動や在り方の経験が足りなかった
僕の演技には説得力が無く、本人もそれを技術として習得する前に
「他に自分よりできる人がいるんだから」
自分が演技する必要はないと思った
結果、生きること=嘘を求めることからも目を背けてしまった
6年経った

人間は同じ状態でいる事に苦痛を感じるもので
ずっと座ってたら立つし、息をつめてたら深呼吸する
それくらいしかわからない僕には他人からどう見えるかなんて
今でもわからない

嘘つきには憧れるし、善人より悪人の方が人間らしくて好きだし
でも自然に嘘をつけず、他人と共有もできない
嘘を他人に働きかけられない自分には、生きる目的がないのだと思った
美味しいものを食べることも無意味だと思った

嘘がつけないから他人の嘘に従って生きる
ただ生きて時間を潰す人生においては
1秒でも長く、眠りたかった
そんな生活に甘んじなければならないと思っていた
帯状疱疹ができたし、寝ながら自転車に乗って顔に傷がついた
遊びを忘れ、眠る以外の喜びも忘れてしまった

だけどHuluでもなんでも、他人が作った嘘を見ると
涙や笑い声の形で自分の中に反応があって
自分も人間だと思うことができた
嘘を自分が受け入れたということで
日常では感じられなくなっている人間性
そこで取り戻してる気になっていたということだ

別にそれでよいのだけど6年の間に父は死んだ
父への気持ちは以下省略だ
我々はどこからきて、どこへいくのか
生まれるか分裂してその辺で死ぬを繰り返すだけだ
結果行きつくところは、一時的でゴールはなく
トライ&エラーでしかない私も
「こうであってほしい」が大嫌いだ
気付いてないのか?

狭い世界で生きるしかない
自分が主役として生きる世界は
自分の知覚でしか成り立っていなくて狭い
そこで主役ですと言うのも恥ずかしいのは
刷り込みがあるからだが
ただの風景ですと言ってる方が楽だ

でもそれでは努力が足りないから
新しい世界に目を向けようとする
努力が足りないと言ってる内は
生まれてきてよかったなぁと思える状態を
望んでいるのだが、その為には嘘をひとつ信じ込んで
やるというのが必要条件で途方に暮れる
だけどみんなもやっている

だからといって周りを見渡しても
何も信じられないしそもそもうさんくさい
資本主義が作った経済原理のせいだきっと
その所為にしようっと
自分もその中にいるようにしていた

でも前にも書いた通り自分に得するように行動するのは
同じ姿勢でいると苦痛だから変える位でいいと思うが
これは今でも2700万人以上いると言われる奴隷にとっては
決して許されない行為なのだなんてことだ
誰も得なんかしなくていいと思う
ああ、そもそも喜んだり楽しんだりするのが苦手だ
それも必ず後で後悔するからで以下省略だ

役者というのは
ダメな自分でいてみせることにも
周囲からオッケーをもらえている
技術がある人だということだ
嘘の達人であり、生き生きと生きて見せることができる
役者でない自分は他人から距離を置くといいと思った
離れた方が肌もきれいに見える
近くても美しいのは自然だけだ
意識は自然ではなく作為があるので美しくないが
人間にも美しい作為というのはある
その瞬間を美しかったと感じられたらそれでよくて
自分は観客でよいと思う
役者も観客なのだが

自分が美しくないということを
認めるのはなかなか難しいようで簡単である
仕事だけしていればいいのである
でもそれでは必要な嘘が摂取できず困る
仕事をしてる自分自体が嘘に必要な場合もある
そもそも自分なんてどうでもいい
自分では見られないのだから基本的に
他人の言うことを聞いていればいいのだ

そうだ軸足から離れたところの方が気楽だ
一度会った人には二度と会いたくないし
すれ違う他人しか愛せない
英語で大福を数える歩かない子供はかわいかった

ジブリ宮崎駿は神が好きなだけで
ロリコンじゃないんじゃないか
巫女、純粋なものが好きって
客観的に見たらロリコンであった

基準の変化というのは死ぬまであるのだ
父の一流コンプレックスについても以下省略だ

時間が経つと感じられるものは減り、やがてなくなり
何もわからなくなってしまう
意識しないと喪失は加速する
使うと決めなければならない
決めるには望まなければ、
望むには生きなければならない
躊躇している内に、やり方も忘れた
あとは受け入れて待つだけだ
つまり、もう死んでいたのだ

好きなものの記憶もどんどん消えている
誰かと共有する機会がなくなり、
情報の出力がないからだ

YouTubeでライムスター宇多丸のラジオを聴いた
小出祐介Base Ball Bear)がナンバーガールと俺を語っていた
自分の青春は一体何と共にあったのか
景色が思い出せないことに気付いた
好きだった人とか曲、マンガ、匂い、ビデオ、味など
当時は忘れるはずがなかったものが
意識に上がってこない

好きなものの記憶も
アップデートされなければ
消えてしまうのであった

34年もそんな事も知らずに生きてしまった
それでも生きれてしまったことは幸か不幸か
つまんないことを気にしてたような
真剣に何もしてこなかったような気もするが
何かにこだわって立ち止まっていたような気もする

髪を切ってようやく34歳の自分が見えた
ぼやけてみる自分の髪はスペースインベーダーのようだ
諦めてきたもの、好きなものは、自分の何かにリンクする
どこにいっても自分はダメだと思ったその部分こそ
大事なものだったような気がする

何が言いたかったのか全く覚えていないけど
シラフの自分が他人に優しいのは
酒乱の自分の罪滅ぼしのつもりであるのか
ともあれ他人には会い見える瞬間の間しか
興味は持てないのである

生きてる時間には限りがあって
芝居は生であるということ
客は見る事に生きてくれているのである

あーもうダメだくそ

この曲が好きだ