宮崎駿ではない
アニメを作りたい、絵を描きたい、映画を撮りたい、カメラを回したい、映像を編みたい、音楽を作りたい、音を編みたい、音を鳴らしたい、演技をしたい、体を動かしたい、人に見られたい、人を笑わせたい、料理をしたい、美味しいものが食べたい、小説を書きたい、文章を書きたい、文字を書きたい、現場に居たい、一人で居たい、人と交わりたい、情報を伝えたい、心を動かしたい、美を作りたい
表現にテーマや主張がなければならないなんてことはない
人が生きている間にしたくなったからするのが表現
でもその時、する人にとって必要な問いがあるなら、やる価値もあると思う
何も疑問を持たずに生きていくのは、幸せだけど愚かだと思う
先日、懐かしい人と会った後、懐かしい店で飲んだ
親しい人と話していると体に染み込んだというか、焼きついている感情が
処々折々で顔を出す時があり、正直が正しいとも思えなくなる
内向きの意識を外向きに変える彼女がいる
彼女は彼を少しわがままにする、自分を変えるのではなく、世界を自分の望ましい状態に変えるために何かをするようになる
そんなのは「宮崎駿」ではない
彼は彼女といるためにやることが、やりたいことなのかもしれないと思い、また改めて世界を見直すようになる
それは「宮崎駿」ではない
忘れてしまった好きだったものや、絶たれた情報への再接続を試みる
新しい関心を向けることで、蘇る回路もあるだろう
蘇る悲しみも喜びも、あるかもしれないしないかもしれないけど
それはもうどうでもよいのだった
兵器と怪物への愛、自然と文明の攻防、聖と穢の同一性、最下層から最上層へ向かう構造、未来の希望と現在の危機感