男子

若い頃は嫌なことを代わりにするのが嫌じゃなければ
いつでもどこでもやっていけると思っていたのだ
嫌なことの中でもいつの世にもあって、
最も忌み嫌われることを代行していけば良いと
選んでもうまくいかないかもしれないが
選ばなきゃいけないのが生き物なので
一番低いところで一番安らかに
死ぬまで生きていけるのではと思っていたのだ
自分には一番嫌なことをする適性があるように思い
それを試してみなければ落ち着かないような
そんな気になることも多々有ったのだ


生きる人を知るにつれ
誰の中にも善悪は両方分かち難くあり
状況によっていずれかまたは両方が
表に現れたりするのだと思うようになる
人の我儘や欲望を表に出してもらうような
そんな仕事をしていると悪い部分や恥ずかしい部分が
まさに自分が向き合って取り組む対象になる


それは自分の悪を浮かび上がらせ
客観的に眺める行為にもなり
腑に落ちたり首をひねったりしながら
本能や環境やタイミングということを
思いながら、自分の中で無意識が作為を
張り巡らせるのを感じ、お茶を濁す


自分が好きな切なさと言うのは
取り返しのつかない時間に対する心の動きである
それが背中を押し、せっついてくるのである
そんな大切だった切なさというものが
個人的なものでしかないように思うようになり
共感が必要な理由はなんだろうとか
何で生きてるんだろうと思ったりする


共感とは言葉による理解ではなく
ただ馴染むことなのかもしれない
それぞれの培ってきた世界というか
世界の認識の仕方であって、それを重ねて眺める行為は
誰とでも行えるような気がするのである


善悪というものはあくまで集団で生きる中にあるもので
好悪というものもあくまで集団への関わりの切り口である
結局は、どうでもいいものしかない
死ぬまで生きてどうだったよということでしかない
社会における約束や決まり事というのは
誰とでも重ね合わせないように住み分けたり
分断して秩序を保つためにしかないように思う


人生は実験で、限られた時間は仮定を立てて
命題を求めるためにあるのだと思ってみる
誰の為にそんな事をするのだろう
先達たちはどんな問いを発し
何を積み重ねてきたのだろう
その時々の現象に自分を重ねて唸るばかりである
孤独というのは全く実験にはなり得ないと思う


ちなみにどうでもいいように流すポーズは
「いらない」と彼女に言われてしまった
「何であなたはここにこうしているの」
「何でわたしはここにこうしているの」
くらいしか話すべきことはないようである