遊び

つまらなくなってる時は、ご褒美が足りてない


欲望は生きる動機になり
肉体は欲望を生む原因であり
生きるということは
残り時間をいかに気持ちよく過ごせるか
自分に課すゲームでもあるのだろう
起きている間、時間があればスマホを見て
ずっとご褒美を探しているように
欲望が満たされる時、気持ちよい汁が出る


社会は私の欲望をコントロール下に留めておく事を目指す


社会に出ると、私の思い通りになる事なんて
それほどないと思わされ、望むと辛いから望まなくなり、
何がご褒美なのか判らなくなってしまったりして
社会から「これがご褒美です」と差し出されたものを
喜んで受け入れたりする


他人が作ったものに感動するのも、一時的にはよい
でもやはり一番の脳へのご褒美は
自分の好きなものを作りだすことだ
それを遊びと呼ぼう


遊びは、2つの作為で出来ている
組み合わせとルール付けである


1.組み合わせ
私が認識できるものは全て遊びの材料になり得るが
私が制御できるか、関わりを持てるかする必要はある
私を含めて、2つ以上の材料を選択する

2.ルール付け
選ばれた材料の関連性を読み解き
「面白いことが起こりそうなルール」を与えて
材料同士が働きあう行動や仕掛けを考える
※物理的にルールの下に材料を置けない時は、
頭の中で動かす訳で、これを想像という

私の肉体も材料の1つなので
場所や時間といった条件もルールに絡んでくる
遊びの参加者が共有する必要があるので、
大概のルールは言葉で記述される


1と2が設定できたら、作動させてみる
遊びの参加者にとって好ましい現象が起きれば
遊びは成功である。気持ちいい汁が沢山出る


生き物は思いついたらやらずにはおれない
私の行動全てが遊びになり得るが、
遊びが過ぎて命を落とすこともあるだろう
だから社会は私の欲望をコントロールしようとする
私の全体への奉仕を最大限にしようとする一方で
私の生命を担保する。これも遊びなのだろうか?


行政や医療から、料理や芝居まで
私の行為や社会のルールには
自由度の設定や、生命維持への係り具合にグラデーションがある
だから遊びには私がコントロールできる
管理下でやるものという条件がある


子供の頃はファミコンをよくしていた
コンピューターゲームが好きだったのは
「誰がやっても大体同じ」だからで
安心して友達とルールを共有することができた
(人には言えない一人遊びも沢山していた)


大人になってから感じるのは、ITと管理の親和性である
「誰がやっても大体同じ」というのは管理しやすいということだ
プログラムも言葉で記述されている

AIが人間の生活を補完するようになって、
私にもたらされた安心と、虚脱感
SNSは私の遊び方まで見せ/見せられる場所になっている


つまらなくなってる時は、ご褒美が足りてないから
とりあえず桃を剥いて、冷蔵庫に入れておいた
起きてきた妻と娘と桃を食べた
それは遊びではないけど、
書く事は遊びになり得る
今日は休みだ