劣等感を飼い慣らして、健全なレベルの自尊心を維持すること

他人を観察するだけで
自己評価が低い理由は見つかる


自分は大したことないと思うのは
大体下記の状態にある事に気付いた時だ
・すぐ安易な結論を出そうとする
・好奇心が動かない
・流れにあらがわない
日々をこなしている時である


こなすというのは高をくくっている証拠で
物事を表面だけの理解でよしとしなければ
生きていけないような余裕のない状態とも言える


ありゃ、どうもよくないと気付いた時
自分の場合は「人生、絶対何かは間に合わないんだよ」
「早くしないと死んじゃうよ」と思うようにしている
でも焦るのは嫌だから、なかなか思うように思えない


そういう時は、とにかく好きでたまらない事を考える
自分が好きなものには、自信を持っていい
好きな対象も、自分が好きであるという事も
どうしようもなく好きで、それだけやっていたい事
でもそこまで考えると、「好き」に過剰な価値を
持たせ過ぎている気もしてくる
つまりは憧れであってそれは行き過ぎだ


もっと淡々と「好き」を見るべきだと思う
日常が好き一辺倒というのも現実味がない
たまに出会う位でもいいじゃないかと思う


ひょいと他人の「好き」をやり続けている姿を見る
さすがに面白いもの、つまらないものは
それなりに目の奥、耳の奥でわかるようになっていて
そこには些細な自尊心があると気づいたりもする
つまらないものは、一様に「個別の我の理解の懇願」だ


そりゃあ環境も体も思考も違うのだから
我の違いも興味を持って見る事はできる
でも見たところで違うんだなという事しかわからないので、つまらない
その我の先にその人が好きなものが表現されていないといけない
他人の我も、自分の我もどうでもいい事である


どうにもやめることが出来ない
偏執的に好きなものがみつかったら、
それは出来る限り続けていくべきだ
それはやる人を真剣そのものにする
終わり、答えもない上に、時間の制約まであるのだから
飽きないところまでいければ
それはもしかしたら普遍的な事かもしれない


でも別に好きなことが普遍的でなくてもよい
我を忘れるくらい真剣になっている状態は
間違いなく面白いし、素敵である
つまらない事をやる為に日々をこなす状態になる類の
余裕のなさはつまらないが、何かに真剣になって
他の事をやる余裕のなさは面白いのだと思う


世界に目を向けて嫌な思いをすることが大半になったら、
一時目を背ければよいと思う
そして絶望というより諦念を身につけたり
期待はしないが自分が傷つけられない限り
世界を無視する事ができるようになったりしても
それで好きなものに向き合う余裕ができるなら
内向的になってよいと思う


ただし、死ぬまで生きてやるという気持ちはあった方がいい
そういう意味で、流れにはあらがったほうがいい
流れとは日々自分の周りに起こることである
流れには乗ってもいいが、乗りつつあらがわないと
生きているとは言えない


自分の場合は、当たり前と言われることですら
いちいち言葉でピン止めしてやらないといけない
そして酒が入らないと、なかなか表に現わせない
こういうのを、我の理解の懇願という
塩梅が難しい


戸川純が寅さんに出てる(↑の2分35秒頃から)事を知った記事
世間に誤解されてきた戸川純、貪欲に生き抜いてきた35年を語る
とてもマトモな事を言っていた


昨日書いたのに上書きして消していた
酒が入ると駄目である