叫びたいほど愛おしい

先日、栲象さんが亡くなった
「今ここに居る集中」を観に
庭にお邪魔したのは3回ほど
庭の外ではichkawaさんの公演で
何度か時と場所を共有した
恰好よかったなあ
築地の病院に移ったとは聞いていて
現在沖縄にいるichkawaさんからも
よろしく伝えてと言われていたのだけど
死んだ事はtwitterを見た妻から聞いた
もう会えないし間に合わなかったとも思うが
聖路加病院で死んでいく栲象さんの
目を閉じた横顔が何故か目に浮かぶ
いつかの庭では公演後、蝉の羽化を見た話をした
桜の枝で作ったパイプで煙草を吸うのが格好良かった
今、誰もいない栲象さんの庭を見たいと思う


さて、ブログを書いているという事で
今日も私は酔っている
大衆は小さな嘘より大きな嘘の犠牲になりやすい。
というヒトラーの言葉を読んで、犠牲というのが気になった
彼も大衆の一員として、犠牲になった経験を自覚していたのかなと
でも「我が闘争」においては、あくまで自分とは違うものとして
大衆について語っていた。彼は本当に迷惑な奴だったと思う


この人間どもの社会というものでは
規則や建前だけでは生きていけない
言葉にされることのない、どうしようもない部分がある
それがあるんだということを認めてから
互いに邪魔しないようにしながら
出来るだけ気分よく健やかに
楽しく生きていけたらよい
そのためには、他人についても
ある程度の理解は必要だろう



ツインピークスのドラマでも目にしたあれが
うちの首相や様々なアンチの姿に重なって見える
他人の世界はバーチャルである
もちろん自分の世界もそうだ
ネットに溢れる悪意
自分の世界に固執する盲目さを見ると
他人の世界を許容できない
子供なんだと思う


そういえばキリストもブッダも伝道者である
生きることが苦しい人に対して
神の存在や世界の仕組、よりよい生き方などについて
余白の多い言葉で説明してくれる
神を崇拝するのは謙虚になれて良いことなのだろう
でも神々しく感じられたとしてもきっと部分的なもので
神全体を認識することはできないようになっている気はする
また感じ方の違いや、崇拝してない者の存在を排除したがるのは良くない
真理を志向する姿勢は、アウトサイダーっぽい
精神的に変化し続ける為にはよいかもしれないが
独りよがりに孤立しがちで、平和な家庭を壊しがちなので良くない
私はそこまで苦しくないし要らない
生きるのは楽しい


だからそれぞれが、それぞれの神を崇拝するなり
それぞれの真理とか生きる意味など求めていればよいと思う
それで自分の足元の問題を解決する努力からしていけばばよい
でもお金や工夫で何とかなる問題はさておき
人間関係や、集団との関わりで生じる問題はまず解決しない
問題には関係する人が必ずいるから
その人を理解しようとしてみることで
関係を少しは変化に向かわせられ得る
それで問題自体は解決ないかもしれないが
問題をとりまく全体の変化の中で
一時的に解決する事はあるかもしれません
皆がそれくらいの気持ちで他人に向き合えたら
まあ少なくとも殺したりはしなくなるだろう



生きている苦しさといえば最近は
"RuPaul's Drag Race"を夫婦でよく観ている
同じくNetflixで『クイアアイ』を観ていた影響もあるかもしれないが
クイアの視点と他者への接し方は素晴らしいと思う
ドラァグクイーン達も性的マイノリティと呼ばれる人が多い
今の社会では少数派は攻撃される事も多いので
彼女たちはとんでもなく辛い経験もしてきているだろう
生きていく為に自分の魅力を探して磨き
見せつける事を楽しんでいる


ある程度は社会に許容されているような気がしている自分は
なぜそんな気がしているのかというと
そういう形に落とし込んでみせているからだと思う
その結果生きている事が苦しくない者がする表現は
生きていることの記録としてだけなされる
生きている記録としての表現は
花に水をやるのと同じようなことだ


叫びたいほど愛おしい
震えるぐらい懐かしい
生きているこの今
そばにあるもの達
心はひとりでに動くものじゃない
みんながいて自分もいて
生きているんだなと
それで全てだ