エゴ

この世の知識を生物が知覚すると
ある場所でその経験が藻になる
その藻は柱状に積みあがって乾燥していく
そこでその藻を食べる一族がいるのだが
一族の子供の中には食べるのを嫌がるのもいる
ただ美味しいだけのお菓子が食べたいのである
ある日…という夢をみた
起きて妻に話したら、何と言われたんだっけ

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いつからあるのか忘れてしまったが
多分吉祥寺のむげん堂かチチカカで買った
何の為の物か、そもそも何の像なのかわからない
「マラカスを持った猿」と言えなくもないが
マラカスも手と一体化してたり
尻尾で支えなきゃ立てなかったり
(ここで猿になったのでは)
ぐるぐるの目とか、すごくテキトーな顔をしていて
結果「マラカスを持った猿」ですという感じで
ついでに作った感がすごくいい
多分バランスを取るために
微妙に傾いた身体の角度がいい
未だにトイレに置いてあって
毎日見ている


公演が続き、彼女は芝居をしている
あらためて芝居というものは面白い
役者が劇的に役として生きていると、感動する
感動すると、心や頭の中に何かが残る
だから作家や演出の作為の中でも
現実にはそうそうない劇的な筋を書きながら
現実に即して都合のよくない事が起こる本がいい
役者や作家の思い込みや願望は要らないが
それ以外の「個人的な事情」のない芝居はつまらない
役者がそこにいる理由、作家がそれを書く理由
当人が今、生きているという事が伝わってくると嬉しい
「個人的な事情」とはそれ以外あり得なくて
その人にとっての切実な思いが伝わると面白い
だから面白い本は、そこにブレがない
彼女のセリフ覚えに付き合う時など
ブレが無さ過ぎて、コワい位が丁度いいなと思う

あとどれくらい生きるか、いつ死ぬかわからないまま
当人が今直面している現実に、なんとか向き合って
こう思った上で自分は、こうして生きてますという
「個人的な事情」を説明なしで知りたい
難しいじゃねえか。大変なことだ

それでも彼女は
本に書かれていることを利用して
面白い演技をしてくる
どれだけ個人的に大変な時でも
「個人的な事情」からくる切実さも
伝えてきてくれる役者である
笠井幽夏子という
このブログに「私の事好きって書いて」と言う
かわいい

自分は誰かに「個人的な事情」を伝えられるのかといえば
今の感情が伝わる体の技術もなく
伝えることに苦心した文章も全然書けない
その癖、他人の事情は観たがるのだから
わがままなものである


今、欲しいものはラードだ
美味しい炒飯を作りたい

裸にラードを塗って寒さをしのぐ実験をしていた人がいた
今日のブログにある画像は主に南米にいたセルクナム族の成人式の時の男の写真である

  • セルクナム&ヤーガン族に夢中♪

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ただ生きて得た感覚、
知って浮かんだ思考を
表現して他に示すのは
自分にとって本能的な事だとは思う
内容に意味がなくても
自分が現象に行き合って
心に何かが起きたんだと
誰かに知ってもらえるだけでいい
人は生殖の為だけに生きているわけではない
子供を作るのは愛した結果であり
人生の唯一の目的ではない
生物としての本能というなら
まず情報共有が先にあるのではないかと思う


そして伝えたいのは好きなことだ
自分はただ生きているのが好きだ
ただただ、その場にいるのが好きだ
その場にある物や光と匂い、音などと
その場にいる私が作る影と動いて立てる音と
そういうものを感じているのが好きだ
そういう時に写真を撮ったり
そういう時に思ったことを後で文章に書いたりする
また「この場所でこの姿勢になった事がないから」やってみたりする
体を伸ばしたり振ったりしてみる
それは大概気持ちよかったりする
床に丸まって妻がやるヨガの真似事をしてたら
たちどころに便意が現れたりもする

ともあれ自分の表現に作為や意図はなくて
自分にとっては新しいと思えただけである
表現されたものが誰かにとって何かに見えたり思えたりすると
その誰かにとって作品になったりすると嬉しい
でも基本的には自分にとっての発見と
ひとり遊びが好きなんだと思う

それは探検というには、既に知っているはずの他愛のないもの
観光というには、対象が身近過ぎるものだ
顕微鏡も望遠鏡も、すごく楽しいと思うが
なんだかやり過ぎで、早く死んでしまう気がする
自分の体で観察したり、感じたりできるものがやっぱり一番面白い
自転車の修理が出来るようになりたい
あとしばらくは沖縄に居たい

子供の頃、いやつい最近まで
出会う人間社会のクソさや
自分も含めた人間のクズさを知って
「なんで辛い思いをしなけりゃならんのだ」
「こんな社会なんか俺も含めて存在価値がない」と思っていた
(主に泥酔して人に迷惑をかけた時の逆ギレである)
人の心の闇というより、しょうもなさを知り
歳を取り体も頭も壊れてくる事とか
社会の問題とは構造的な不備で
色々知らなかったこともあると知ってなお
「俺をひどい目に遭わせといてなんだそれは」
「社会なんてどうなってもいい」とすら思っていたと思う
でもあれ、自分の子供にもこの社会で
同じような思いをさせるのかしらと思うと
やっぱりなんとかしたいということになった

だから問題に行き会ったら、誰にでもわかるような
筋の通った否を言い続けていくしかないだろう
そして自分に都合の良い願望は捨てた方がいいだろう
自分でもみっともないと思う
SNSを見ても嫌になることばかりだけど
少なくとも、自分や他人の差別や偏見や
直面している現実の構造的な問題
下らない願望や思考の劣化などに
自覚的になれるのはいい
あとかわいいものとかはかわいい
それに、もう少しマシなところに
向かっている気がしないでもない
社会こそ集合知であるべきだというのは
誰でもそう思うのではないだろうか

もし情報共有が人間の本能的なものなら
現在どんなにクソで嫌でも、なくなりはしないし
それにもし自分が生きている内に
何にもよくならないとしても
自分が他人から見向きもされなくなり
社会に関わることすらできなくなったとしても
風通しの良い部屋で
じっと横になっていられさえすれば、
生きていることに感謝できると思う
できれば妻と一緒に
これが自分の「個人的な事情」でありエゴだ

でも人生に感謝しつつ、クレームを言う生き方
それで望みが叶うのだろうか