困りはしない

f:id:o33702:20190418164716j:plain
ねぎぼうずに青虫
うちには「最後の晩餐」のポスターが貼ってある。実寸ではないが結構デカい。部屋に入るとまず目に入るデカさだ。これを見た義父が、絵に描かれた人たちの名前が入った図をプリントアウトして持ってきてくれたので、畳んで画と壁の間にちょっとはみ出すように挟んである。来客はこれはどういうことだろうと思うのかもしれないが、口にする事はあまりない。
何故この絵の複製を貼っているのかというと、以前大判ポスターの仕事で溜まっていたポイントの期限が切れそうだったので、妻に好きな絵を訊いてネットにあった画像を注文してみたからだ(壁に貼るとは思わなかったと言われた)。同じ理由で、うちのかわいい人たちをスマホで撮った画像もプリントアウトして「最後の晩餐」の下に貼ってある。こちらもデカい。
先日結婚してないことが気になっている口ぶりの人がうちに来た時、関係の中身は大事だけど結婚すること自体には特に意味はないし、このポスターと同じようなものではと言ってみた。理由はあるが意図はない。かわいい人たちを並べて貼ってあることには、少し意図はあるかもしれないが。来客は「えー」と笑ってはいたが、何も言わずに帰っていった。まあ、完全に余計なお世話というか、余計な話だ。オッサンになったものだと思う。ともあれ意味のないものが目につくところにあると、何かと気楽になるとは思っている。

子供の頃から死ぬのがこわくて、何をやりたいのか聞かれると困った。ずっと涎をためていたりぐるぐる回り続けたり、自転車で恥骨を強打して息ができなくなってみたり、社会的に無意味なことをするのが楽しいくらいで、死ななければ何でもよいからである。強いて言えば「まだやったことないこと」で、その時々で適当に答えていた。一人で死ぬこわさを味わって遊んだりもしたが、誰かと会う場所ではどこに行っても「何をやりたいのかわからない」「何も悩みがない」変なやつだと思われていたような気がする。大人になってからもそうだった。そんな自分でも、家族が出来てからはまともなやりたいことも出来たが、元々の性質は多分死ぬまで変わらないので「あいつは何がしたかったのかなあ」「変なやつだったな」と思われたまま死にたいと思う。話が脱線したまま死にたいと思う。までいってしまったが、何を言いたいのかといえば、意図を「ケッ小賢しい」と思ってしまうところがあるのは、自分のやりたいことを自信を持って他人に言う経験が乏しいことへの、反動でもあるのではないかということである。自分でも本当にしょうもないな自分としょぼんと思っている。ブログを書いていて思うのは、どうでもいいことを言語化するのが好きなんだなあということだ。どうでもいいというのは、劇的でないこと、たまたまそうなったこと、特に意味のないことなのに、気になってしまったことである。自分のことを語ることでしか表現を始められないので、結果的にそうなっているのかもしれない。そういう人間だから、意味のない造形に気楽になったり、変哲もない景色に自分の納得のいく説明をつけたくなったり、するのではないかと思った。思ったと言われても。