限定品


店を開ける前に、上野で土偶を見てきた。人気の展覧会らしくかなりの人出だった。地元弘前にも十腰内遺跡が有るが、個人的には有名な遮光式土偶のイメージ位であまり知らなかったので、この機会に土偶体験を深めておこうと思ったのだった。
で!もー素晴らしかった。土偶も土器も。表情。デザイン。土を捏ねて焼くという限定的な方法ゆえの、最強の表現力。表現の強度が圧倒的なのである。流行などに左右されない「こうでなければならない形」。日用よりも祭礼用のものが多いとはいえ、作り手の個人的なエゴは全く感じられず、感じられるのは例えば精霊を表現した土偶は本当に精霊だという事だけ。それでいてどの作品も思わず微笑んでしまうくらい親しみ易く、逆に作り手の事に思いを馳せてしまうぐらいである。掘り出されて今に残っているという事実とは関係なく、作品自体がまさに奇跡なのだった。うわあ、全部欲しいと思った。
ちなみに唇や鼻、耳などの小さなパーツは非常に写実的に作られているものもあり、奇抜に思える造形は技術的に写実的なものを作れなかったからではなく、むしろ作らなかったからだろう。素材や製法という意味では写実的な表現をする技術がなかったと言えるかもしれないが、作り手の指向するところに写実的な表現はなかったと思う。焼く前の粘土では写実的なものも幾らでも作れただろうが、無から有しかしてないでしょうきっと彼らは。実際は命がけで作られたりしたのだろうが、自分にはとても到達できない境地にいた作り手たちの顔を思い浮かべると、皆自然体で余裕の笑みを浮かべていた。
常設展で彫刻、絵画、工芸品も見たが、土偶展にすっかりやられた後では、表現の強度においては「退化してる」としか思えなかった。時代を下るにつれて表現方法の自由度は増していくが、作品の動機や目的地はどんどん作り手の個人的な部分に向かって限定されていくようだった。もちろん個人的な部分を純化する事で強度はでてくる。苦しみ続けて普遍性を獲得していくその精神の在り方も芸術的だと思うが、土偶や土器はそういう「追い込み」によっては作られておらず、そもそも「芸術」すら指向していないという点において、自由で朗らかな奇跡の芸術なのだった。うーん、人間の精神性も一周回ってまたそこに辿り着けないもんかなあ。それは全く同じではあり得ないだろうが、つい夢想してしまう。