見る

先に夕飯を食べ終えてぼーっといつもの「寅さん」を眺めていると妻が「若いねえ」と言った。旅に出る寅次郎をさくらが見送るシーン。まだシリーズの最初の方の回で、見る度に自分も若いと思うので「若いねえ」と言ったら、妻が「見惚れちゃダメよ」とふざけた。自分は乱視が進んでいるので、眼鏡をしてないと焦点を合わせ続けられない。ちゃんと見てみようと思い、まだ食べている妻の顔や口の動き、皿に運ぶサラダのトマトや甘栗やアボカド、こちらを窺う妻の目などに焦点を合わせてみた。やはり焦点は一時的にしか合わないが、普段よりきれいに見えた。見ようとしている自分の目も普段より目力があるんだろう。食後にひと仕事して、情報量が多い画面を見続ける。慣れているので必要なところしか見ない。目が悪くなっていくことに慣れ、疲れないように見ることに慣れている。見ることは無意識に固定されていき、意識が向くものや動く道筋も同じになりがちだ。仕事が終わって、今日は満月だったので妻と散歩する。ルーペを持ち出して目に当ててみるが、いっぱいに白い光が広がるだけだった。妻に目が悪くなるからやめろとしかられる。ルーペを持ったまましばらく散歩をする。ゴキブリ2匹と遭遇し、近年のゴキブリは弱弱しい気がするという話をする。夜の公演を回り、お化けを見たことがあるかなど話し、他の虫やヤモリなどの小動物には会わなかった。風もなく、静かな夜を見た。

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たまに夜球を投げる

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多摩動物園にて

風が好きだ。風は空気の移動で、温度変化で生じる気圧差で起こる。地形との摩擦や自転の影響も受ける。問答無用で起きる。都市では電車に押されて風が吹く。運動でも風は起きるが、浴びていて気持ちよくはない。無意識に吹いている風の方がいい。地球から空気が無くなるまで風は吹き続け、気圧差が無くなったら止まる。運動も差があるから起こる。移動以外にも色んな目的があって、何かが足りない時に起こる。社会的な運動の目的は均質化だったりもする。物理は勝手に均質化に向かうんだし、生き物がわざわざ均質化を進めることはない。どうせするなら、個人は異なるもの同士で交わり、多様性を増やす運動をした方がいい。話がすり替わってしまった。ただただ仕方なく吹いている風が好きだ。一面砂利と雑草が生えたような空き地で風に吹かれていたい。それで側溝のザリガニを取ろうとしている子供など眺めていたい。空き地はどんどんなくなっているし、そんな子供はもういないかもしれない。ザリガニが側溝に入るような環境もない。でもそんな想像の場所ですら空気の動きを感じてみる時、自我がなくなる感じがしてちょっとうっとりする。

『暗黒日記』は寝る前に少しずつ読んでやっと50ページくらい。予想通り暗くなるというか、程度の差はあれ現在と変わらない部分が多く、自分の事しか考えられない政府首脳のままでは、戦争を起こされる事も有り得るという思いの現実味が増した。筆者の人柄と知性に救われるような気もするが、戦争を止められなかった市井の一人としての絶望を感じる。そして昔の人の名前は難しい。『最初の悪い男』は先に妻が読んでいてとても面白そうである。

つゆ

もともとこのブログは会社をやめて小劇場の板に立った時に、自分を知ってもらうために始めたものである。社会的に何者かであるアピールをしなければと思っていた。何をしたとか、何がありますので来てねとかの他に、こんな面白いもの見つけたよ!とか、自分ってこんなこと考えてるんだぜなんてことも酔った勢いで書いていたが、舞台を降りると告知もなくなり、こんなこと考えてるんだぜえばかりになっていく。読んでくれた人の感想では、日常の具体的な出来事の記述、つまりはただの日記の方が人気があった。気持ちの整理のために書いたものより、体のすぐ外側に目を向けて書かれたものの方がいい。内面を語る言葉は整理すると抽象的になる。それよりは端的な言葉でも、具体的に書いた方がいい。

今日は朝から雨が降り続けで、部屋の中はずっと暗かった。台所の灯りは全て暖色で、点けると『ホタルの墓』の過去みたいに黄色い。昨日の日中はまだ雨は降ってなかったので、外に出て板をのこぎりで切った。先日どくだみを刈ったところだ。寝室の隅に放置されていた収納箱を空け、中身を空き部屋にあるスノコと切った板で組んだ簡単な本棚に移す。ボックスには使わなくなり出っ放しになっていたモニタを詰め、備え付けの収納に仕舞った。スペースを作るのに空き箱など片付けていると、引っ越してきた時に買った照明が出てきたので台所に取り付け、妻が義母からもらった派手めの服を着て妻に見せて、寝た。今日は雨も風も強く、仕事の休憩中も公園にボール投げに行けない。空き部屋に行きしばらく眺める。本棚は横板が途中でたわむのでつっかえ棒代わりにしていた本を手に取ると『暗黒日記』だった。太平洋戦争当時の2年5ヶ月に渡る日記で、2年前に買ってから1ページも読んでいない。居間に持ってきてテーブルに置き、本の表紙を眺める。ああ、読みたくない。暗くなるに決まっている。『ゲド戦記』『コクリコ坂』とか未見のジブリ作品を観てみようかなどと思う。でも読みたくないと思うものは読まなければならないと思い、寝室に持っていった。仕事は進まず、童貞の恋人とのことに悩む知り合い向きの記事を送ったり、国民年金保険料の産前産後期間の免除制度についてSNSでシェアしたりした。

バイトから帰ってきた妻は気圧のせいで体調が悪いという。夫はどうだと訊くので、悪くはないけど落ち込んでると答えた。何で落ち込んでるのと訊くので天気が悪くて暗いからだよと答えた。そんな訳でこの記事は今日妻が不在の間の夫の行動から、落ち込んでる感じを雰囲気で伝えてみようと思い書いた。あ、あと蟲師のBGMの後で女子美大の寮にまつわる怪談も聴いてた。結局内面を語ってるじゃねえか。すいません。写真でも語っちゃうぞ↓

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言うほど黄色くはない
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整理が必要な空き部屋
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どーん。分厚い

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これです

社会(はじめまして)

こないだ「今の日本は鬱なのだ」というツイートを見た。うまいこというなあ、と思いながら、自分も社会の役になんか立つまいと思ってたら、更に社会がクソになってしまった申し訳なさに思い至る。「当然そういうもの」という建前がまかり通ってるとか、生きてて幸せと思えない人がいるとか、全然持続可能じゃないとか。傷付けられて弱ってる人たちや、まだまだクソの中でスタートしなければならない子供たちに対して勝手に申し訳ないと思う。生きてる事が楽しいなら独りよがりで全然いいのだが、他人を傷付けるのはアウト、退場。他人を傷付けない為には他人を知らなければならないし、他人を傷付ける気持ちよさが在るとわかった上で、それを感じてるのはダサい。ダサいなんて軽いものではないけど、そういうことさえ守れたら、後はみんな勝手に生きて死んでいけばいいんだが、そういうことにはまだなっていない。

でも社会、めんどくさい。めんどくさいので基本はどうでもいいんだけど、危険を感じる状態は当然よくない。野球の球投げした後にも存分に風の気持ちよさに集中していたい。どうすれば最低限OKと思える社会になるのかといえば、みんなが自分より他人に興味を持ち、面白がれる状態が少なくとも要る。自分が正しいとか、絶対なんて考えはなしだ。感覚的には、みんな違う世界に生きているから、自分の感じ方や意見にも普遍性があるとは思わない。でもそれぞれの世界を形作るリソースもまた同じ世界だから、誰かと重なる瞬間はあるかもしれないとは思う。本当も嘘もごちゃまぜで、自分自身や状況に応じて都合よく情報を受け容れたりしているのは、例えば政治家がダメとかいう以前に、人がそういうものだからだと思う。意識してないと自分で自分の記憶も改ざんしてしまうみたいな。ダメなものだという意識から始めたい。

昔、高円寺でシランプリという服屋をやってた陽光(ひかる)さんには、大学の友達だったダンサーのホナちゃんのライブで出会った。陽光さんはダンサーの鈴木ユキオ氏と一緒に、確か金魚×10という名前のユニットをやっていて、主に喋り担当だった。駅前の地べたで、コンビニの酒とツマミで飲む「場ショップ」というのをやっていた。天才だと思った。しかもひらめきと行動が同時の人だ。その後職場が高円寺になり、仕事帰りに酎ハイを買って店に差し入れたりしていた。仕事を辞めて迷走したあげくに女装した時にも服を買いに行ったり、そのままおうちにお邪魔して、麻雀した事も一度だけあるが、酔っぱらっててあまり覚えてない。このブログの最初の頃にも陽光さんのことを書いていたが、誰もやってないことやってるカッコいい人として遠くから見ていた。

今は「途中でやめる」というブランドの服がバカ売れしている。もちろんデザインも売れる理由だと思うが「作れば作るほど儲からない」という資本主義の逆をガチでやってるという姿勢がまた共感を得ているんだと思う。遠くから見ていたと書いたが、あの頃出会った面白い人たちの中でも親しみやすさはダントツで、最近陽光さんが友達とやってる「牛丼ラジオ」の感想を、まとまってないまま送った。友達に送るよりさらにゆるい文章だったが、なんとなく陽光さんなら面白がってくれるかも、と思った。正直まとめてしまうとつまらないと思うくらいの内容だったが、えいやっと送った。するとソッコーで返事があり、自分が聞いた回の出演者のナカコさんにも感想をシェアしていて、そのナカコさんからお勧めの本として『最初の悪い男』を教えてもらった。さすが「100%嘘の出会い系」をやったり「古インターネット屋」やろうとしてるだけある。さらにはメルマガにも感想を紹介してくれて、昼間のツイッターリツイートされ、フォロワーが増えた。影響力…!ネットを通じて、陽光さんの社会にちょっと入った感じがする。

SNSなどで個人の思いや感情の一端を目にし続けていると、いかにもおもしろいことや役に立つことはもういいよと思ったりする(暇な時や困った時は有難い)。それより当人にとって切実なもの、意図すらしないものや、ただそこに起きている現象だけが欲しくなる。意味のないもの、マヌケなもの、なんでこうなったというものは、それでいいんだと思えるから、いつまでもあってほしい。自分は、ミーハーなところもあるが、基本的に違う世界を生きている他人に、同程度の興味と距離を持ち続けてるとは思っている(家族は特別)。意味のないものや理解できないものが面白い。自分には普遍性を指向するような強い表現もできないし、社会の中で新しいやり方を思いついたり、他人を結び付けたりもできない。映像が浮かばないと文章も書けない。きっと誰かにとってどうでもいいようなこと、歩いていて見かけた壁の修繕跡がかっこいいとか、家の中のハエトリグモがかわいいとかそういうことだけで毎日楽しく生きてる人なので、これからも楽しんで幸せになること、あとはまあできるだけ困ってる人の力になるとか、自分にできるのはそれくらいである。人以外の動物が好きな妻と結婚してからは泥酔することもなくなり、あまり変なこともしなくなった。最近は庭のドクダミを刈って、お茶を作って飲んだらおいしくて、うんこがもりもり出た。そんな感じです。宜しくお願いします。

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うちのかわいいひとたち(一部)

お気に入り

一般的に好きなものというのは、理由はわからないが固執してしまうものを指すのだろう。自分は固執しないことに固執するという、どうしようもない考えでこれまで生きてきたので、自分のことは一般的な好きという感覚がわからない、つまり情の薄い人間なんだろうと思っていた。諸行無常の気分でいて喜怒哀楽がない。大切な人が出来ても距離があるのは仕方ないと詰めようとしないので「本当に好きなの?」と訊かれることも多かった。固執しないというのは、変わることを好むということで、大概の現象を受け容れられるともいえる。好きなものを考えてみるより、嫌いなものを挙げる方が少なくて楽だ。まあ情は薄い。

それがパートナーが出来てからは、彼女との関係に固執することになる。初めて彼女と会った時「先住民みたいな人だな」と思った。前髪ぱっつんで黒髪だからではなく、東京で生まれて育ったのに土の臭いがする気がしたからだ。その予感は当たっていて、自分を飾ってみせることもないし、他人を含むあらゆる現象と向き合って心を動かすし、何より自分の中の基準を大事にする真っ当な人だった。俳優でいながら飾らずにいられるなんて恰好よい。だが彼女は周囲の人間も真っ当であると信じたがっていたようで、不満を抱えていた。一方自分は常識は嗜む程度でお茶を濁すし、ほぼ毎日泥酔しては酒の力を借り日常に変化を起こそうとするような人だったので、付き合い始めて「これが真っ当ということか」と思うことがたくさんあった。自分にはない彼女の真っ当さに固執していた。

平たく言えば未熟者同士、酔っぱらってケンカすることも多かった。ケンカの時は怒った。そしてすぐ仲直りしたいと思った。正直に話し合うことが、二人とも好きだったのは幸いである。人生で最も悲しい経験も一緒にして、受け容れることもできた。生活が変わり、何か起こる度に弱いところを見せたり、逆に強さを見直したりしながら認め合っていったのだと思う。家族になった。生まれた時からあった家族とは違って、互いの意志で作る家族である。自然発生的に起こったものに目を向け、固めていく意志を持った。そして今は家族でいることに固執しているわけだが、変化を拒んでいるわけではない。彼女とは物事の受け取り方や反応など違う部分はたくさんあり、相変わらず興味深い。ソウルメイトといわれるものもよくわからないし、多分そういうものではないのだろうとは思う。でも彼女の事は世界で一番信頼している。

人間の好奇心は全方位に向かっている。もちろんよくないことにも向かうので、そこでどう行動するかは倫理観と、信頼する人の有無に左右されるのだろうと思う。結論からいえば楽観的なのだが、自分はまず悪い想像をするクセがある。帰宅時には、誰かがドアを開けた瞬間に攻撃してくる事を想像するので、まず中を一瞥してから入る。予期した以上、予期せぬ不幸は減るからで、防犯上よい習慣だと思う。社会への疑いも捨ててはいけないと思うし、そもそも人間の中にある悪意の存在から目を離せない。避けられない理不尽は、この世に間違いなく存在する。そんなところにおいて、世界で一番信頼する人と、これからも守りたいと思える関係が作れたことは誇らしい。もはやそれはお気に入りである。またこんな事を書くと「軽い!」と怒られるかもしれないけど。でも唯一無二のお気に入りなのである。

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つばめをよく見る

おしゃれ

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twitterで見かけたファッションのイラストから横山裕一のマンガを思い出し、寝る前に読んだ。新たに買った作品も相変わらずかっこいい。表現されているのは極めてシンプルな現象でありながら、描き方は細部に至るまで具体的でフィジカルな現実の物理法則に則っている。なぜこれを描いたのか、描きたかったから以外に理由はないとよくわかる。その描きたさの熱量は多用される擬音の直線的な力強さに限らず、徹底して管理された描線、さらには解説の簡潔さにも表れている。描き方にも実験性があり読んでいて楽しい。ただアップの画が多いので、慣れないと作品世界の状況をすぐ読み取れず、目と頭が疲れる。そしてこれでいいのだ、と安心して眠った。

横山裕一のマンガに出てくる人間たちの外見は一見人間とは見えないほど個性的だ。シンプルな現象と物理法則の下で、皆元気いっぱい思い思いに動き回っている。遠目には群れだが、それぞれが確固たる目的意識を持ち、衝動を優先して楽しそうだ。人間の見た目について考えてみると、そもそも裸が一番個性的である。造形大きさ色重さ全て異なり、遺伝子的にも皆異なるエラーを抱えている。さらにそれぞれが常に老化しており、食事排泄等の状況や病気、体調や気分で変化もしている。低気圧で頭が痛い時の体も薬でハイになった時の体も個性的だ。マンガでそういう肉体の描き分けをするのは現実的ではなく、表現する内容によっては不要である。ハイファッション的な外見のデザインが素敵だ。

横山裕一の描く人間たちは皆健康で、疑問を呈したり仮定して行動したりするが、私はこんな人間だなどと主張はしない。自我の有り様などどうでもいいように見える。とても恰好いい。「これが私だ」と思って出されるものは、大概そのままの私ではないので、こう見られたいというのは恰好悪い。何者になるとか何事をするとかはどうでもよくて、正直でいられたら良い。それは努力とかではなく、えいやっと正直でないことを捨てる覚悟である。裸の自分を見せられる人のことを、恰好いいという意味でおしゃれと呼んでいる。

しぜん

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昔から社会的なことに興味が持てない。逆に気になるのはいつか死ぬということで、変化する自分や新しい経験、他人の純粋に個人的な行動などは、大いに興味がある。一方で役割とか見た目だけでも面倒なのに「こうあるべき」なんて話が多過ぎて辛い。一応、生存する可能性を上げる恩恵も受けているのだろうから、社会にいてもよいものとして「意味」を求められる以上、それらしいものを用意、時にはデザインして体裁を整える。時には説明もする。めんどくさい。やっぱり人に殺されるより、熊に食べられた方がいいし。

存在意義はある程度自分で作らなければならない。周囲から使えるものを探したり、自分のリアクションに理由付けしたりして、他人に見せられる一面を用意しておく。社会はカオスを排除しようとする不自然なものなので、それに応じた不自然な一面、つるっとしたお面が社会的な自己である。それも自分の一部だし、文句はないだろうという建前だ。

それを考えるのが面倒過ぎて、幽霊になりたいと思っていたこともある。ずっと誰にも認められないまま周囲を眺めていたい。社会的に幽霊になるには、欲望を滅却して周囲に擬態すればよい。欲望の滅却なんて難しいと思われるかもしれないが、ただの習慣である。なぜやりたいのか自問していけば、大概の欲望に理由はない。刺激そのものを無効化する考え方と行動をしていけば、環境もそうなっていく。だが飽きる。毛穴からも臭いがしてくるし、少なくとも身体の処理は考えなければならない。

脱線したが、だから公人や有名人はさぞや疲れるだろうと思う。覚醒剤をやりたくなる気持ちもわかる気はする。特に天皇は一番大変だ。象徴として存在する(しかも実体のないものの象徴)なんて難易度が高過ぎる。そんな禅問答を強いるようなルールの下に生まれてしまった天皇がせめて独りでいる時には、存分に社会的に無意味なことをやって頂きたい。

したいからするのが自然である。何故したいのか欲望に理由はないと書いたが、自然は多分そういう風にできているし、全ての行動は自分にとっては意味がある。社会的なことに興味が持てないというのは、自分が社会に向いてないからだ。社会に不適合な人は、社会に合わせて自然をうまく手放せないだけだと想像もしている。実際のところ他人に親しみを感じるのは、自然な一面を見ている時だけである。建前に安心を覚えるようには、なりたくない。


即死 THE ↑ HIGH-LOWS ↓

昔インド料理屋のバイト前に、この曲のサビを口ずさんでいるのを、通りかかったインド人に心配されたのが後の妻である。