ごはん

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今日はふとんを洗って埃を掃除機で吸った
風邪をひくと大変だから
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かわいいゆかちゃん

twitterを見たら先日NYTimesで掲載された
イエメンで餓死した子供たちの写真があって
この子たちにごはんあげてやってくれよバカヤローと思う

家で仕事してる間、写真が三回落ちたので
実家の母に電話してみたら別に元気だったが
僕のおじさんとじいちゃんばあちゃんとひいばあちゃんの
合わせて80回忌を先月執り行ったらしい
再来年にはおやじとひいじいちゃんの*回忌をやるらしい
その頃には大学の奨学金も返し終わって
さっぱりした気持ちで行けるかもしれないと思った

家で仕事してるから夕ご飯を作る
圧力鍋の使い方をわかってから
肉の調理が少しうまくなった

仕事中は怪談や猥談をBGMにしている
霊体になると場所を問わず好きなところにいけると言う

今日は圧力鍋は使わないけど、一生懸命作るので
イエメンの子供たちも食べに来たらいいと思うが
そんな風に思う自分の存在を
あのこたちは知らなかったやと思う

お酒片手にくだを巻けるくらい
生きて欲しかったと思う
死んぢゃってくことを
ちゃんと過ごしてほしかったと思う

幸福

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テレビを観なくなって久しい(野球は観る)
大体18年位になるかと思う
一方SNSは2009年からやってるので
(一度酔っぱらって消した)大体9年になる

見たり見なかったりするSNSだが
大きなニュースが誰かの意見とセットで入ってくる
自分の意見を考える前に、誰かの意見に影響されてしまう
ただ出来事を伝えてくれるニュースが貴重になっていて
ジャーナリストはすごく重要な事をしてると改めて思う

大変な思いをしたジャーナリストに思いを馳せては
自分の命や自由が脅かされることがない時の幸福を考える
ごはんとかセックスとか、動物の喜びとは別に
その他にも幸福はありそうだが、それを感じる時は
自意識の有り様にだいぶ左右されるみたいである

夢中になれてる時は幸福なのに
仕事させられてる時は不幸だ
一人でいる事の心地よさは
社会的な自分を意識しないでいられるからだが
自意識を持って誰かと楽しく過ごせたら
それはそれで幸福だと思う

人間関係についてもSNSでは話題になる
自分が始めた頃は、体育館みたいなところで視線の合わない者たちが
好き勝手に喋っているような、見た目はペンギンのコロニーみたいな
イメージだったが
最近は誰かがログインしてる事を感じるような
プールの中みたいな感じがしてきて
いいね!やシェアなどをサジェストする機能から発展して
リツイートの代行をしたり、オンライン上に「いる感」を
提供するサービスも出てきそうだ(ボット化するその人感)
コピーロボットとか、デジタル終活とか色々考えるけど
そもそも「SNSなんてやってない人の方が多いでしょ」と思ったら
案外多くて無視できないものになっている

cakes.mu
デジタル坊主もいる

色々下り坂の日本社会だが
おかしい時によりよい方向にしようと頑張る人と
相対的な変化に合わせて今しか出来ない事を頑張る人と
どちらが正しいのだろうかなんて思うが
とりあえず今は洗濯物が乾かないので
日当たりのよい家に住めたら
すごく幸福で仕方ない気はする

音楽

www.youtube.com

むかしXTCというイギリスのバンドがあり
何曲かヒットソングを出し海外ツアーも決まった後
ボーカルのアンディ・パートリッジが舞台恐怖症になり
以降はアルバムを何枚か出している

自分が高校生の時ラグビー部の先輩に
カジヒデキキューピーマヨネーズのCMソング
XTCMayor of Simpleton(大馬鹿野郎の意)をパクったと聞いた
上京してからも古本屋でXTCのドキュメンタリーを買ったり
たまに聴きたくなったりしていた

改めてWikipediaを見ると、Blurのアルバムのプロデュースをして
途中で降りたり(降ろされたり)していた
なぜアンディが舞台恐怖症になったのかは当然わからないが
個人的にめんどくさそうな人だなあと思う

初めて買ったBlurのアルバムは"The Great Escape"だった
ほわわんとしてちょっと厭世的な感じがした
Blurはルックスもすこぶるよいし
「ウーフー ブラー」で検索してもYouTubeが出てくるほど
日本でも人気のバンドである
大人になったある日仕事をしながら作業用BGMを探していたら
ボーカルのデーモン・アルバーンのソロアルバムがYouTubeに上がっていて
"Everyday Robots"とか厭世観丸出しだった

色々嫌になった事があるならわかると思うが
感情のスイッチが切れるというか、心が動かなくなったみたいになる
そんなジャケットのアルバムの曲は無力感があって美しかったが
会社で作業用BGMとして流すのは子供っぽいのでやめた
デーモン大丈夫かなとちょっと心配になった
(そういえば自分はJoy Divisionとか、イギリスのバンドが好きみたいだ
ボーカルのイアン・カーチスは映画にもなっているが首を吊って自殺した)


ロボットといえば、無力感というか
世の中クソだぜを淡々とした曲にする人として
ゆらゆら帝国坂本慎太郎がいる
とてもカッコいいと思うが、ソロを聴きたくなることはあまりない
ゆらゆら帝国の曲は、カラオケで妻と一緒に歌う)
多分生身の感じがしないからだろう(今は)
www.youtube.com


日常の自分むき出しで多分病みきることもなく
楽しそうに歌ってる人としてTOMOVSKYがいる
歌を作って歌うのが好きなんだろうなあという感じ
マヌケでもそのままでカッコいいのである
そう感じるのは彼が日本人だからなのだろうか
アンディもよく知れば面倒くさくなくなるのかもしれないけど
色々彼の水準まで到達できる気がしない(皮肉)

家で『無計画とゆう名の壮大な計画 - YouTube』を流していたら
妻に「あなたみたいな曲だねえ」と言われて、嬉しかったので
ほめ言葉として受け取っておいた


最近新しい音楽のインプットが全然ない気がして
とりあえずソウル・フラワー・モノノケ・サミットを買った
最近作られた音楽にはまだ食指が動かないようだ

(追記)
音楽の全然違う好きの方向では
比較的新しく知った音楽家がいたんだった
中村佳穂だ

例の変態舞踏家を紹介してくれた舞踏家の公演で
パーカッションをしてくれた
素敵過ぎるスティーヴ・エトウさんがおすすめしていた

明らかに天才肌の彼女の楽曲やプレイは
「素敵で胸を一杯にしたい!」という気持ちが
ひしひしと伝わってきて感動する
www.youtube.com
でもアルバムは売切れ中だ

熱量

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マリンバの脳に来る音が好きだ
でもだからといって
今すぐ自分でマリンバを叩こうとは思わない
実際に機会を用意するのはなかなか大変だからである
YouTubeマリンバの演奏を探して聴いたり
マリンバで検索して出てきた記事で
マリンバシロフォンの違いを知ったり
すぐできる事をしてある程度満足する
でも、自分のしたい事なら
実際にするのであろうと思う
この「実際にしたい!」という熱量は
結構理由も無くあるものである
とりあえず自分のマリンバへの熱量を記憶しておく

人間は自分のしたい事をする
自分のしたい事にこだわり
まわりの人間とぶつかる
したい事に純粋であるほど、
素直で必死なほど魅力的だ

ぶつかる事はとても疲れる事だ
疲れたら休まなければならないが
都合よく休めるわけでもない
だからといってしたくない事をすると病むので
どうでもいい事をして日常の大半を過ごしていると
時に自分はしたい事をしているのかと思う

したい事に純粋でいられる時間を
如何に日常に持ち込むかなんていうのは
小手先で要領よくできる事ではない
やはり熱量を意識して、自分のしたい事を
やり続けようとするしかないのである

オードリーの若林のエッセイに
「牡蠣の一生」というのがある
番組で牡蠣をとった若林は
「牡蠣は何のために生きているのか」と
彼の悩みに答えてくれるおじいちゃんに尋ねる

おじいちゃんは笑って「最初から意味なんてないんだよ」と言った。
「いいかい。この世に存在する理由には二つあって。一つは何かをしているから存在していいということ。例えば、会社にいてちゃんと働いているからその会社に居ていいって思えるみたいなこと。二つ目は生まれてきたら、なんの理由も無くこの世界に存在していいということ。
 リストラされたりして自殺しちゃったりする人は一つ目の理由が全てだと勘違いしている(略)ホームレスを少年が襲ったりしたら捕まるでしょ。それは大事な大事な二つ目の理由を侵す行為だからなんだよ。そして、少年たちは一つ目の理由ばかり教わっているからその犯罪行為を悪いこととあまり思わないのだろうね」

それを聞いた若林は
意味なんてないからこそ、せっかくだから楽しいことをするのだ
せっかくだから面白いことをするんだと納得するという話である

エッセイを読んで、自分は昔から
「二つ目の理由」に根拠のない自信を持っていたと思う
「意味の無い事に価値が無いわけがない」と思っていた
なんでかはわからないが
誰かが「そういうものだ」と刷り込んでくれたのだろう
そしてそれはきっと親など環境の影響が大きいのだろう
でも、そう思わないと
やってられなかったからだと思う

知り合いにアル中で変態の舞踏家がいる
初めて会った雨の夜、彼は蓑傘を羽織り煙草を吸っていた
蓑傘の下は露出度の高いワンピースで
ワンピースの下はTバックだった
マヌケだが面白いと思った
若い頃は違ったのかもしれないが
彼の舞踏は美しさの対極にあるようなものだった
政治への危機意識をアジりながら踊る
そんな舞踏公演を完全に自費で行っていた
いつも盛り込み過ぎて収集がつかない
本人が倒れて終わる事もあった
でも面白いので公演を手伝ってきた

彼は「エロい女性の服が好き」という
要は女体が好きなのである
好き過ぎてエロい服を着て
どこへでも出かけていく
でもいわゆる社会的にはアウトなので
よく飲食店を出禁になったり
飛行機の搭乗を拒否されたりしている
また危険なので常に他人の目を気にしている

彼はアル中だが性格はとても穏やかで
偏った方面ではあるが博識で顔も広かったので
舞踏家と知り合った頃はよく一緒に飲み歩いた
感情を表現する手段に舞踏があるのが
かっこいいなあと思っていた
何より自分のやりたい事をする熱量が凄かった

kangaeruhito.jp
>「小川榮太郎・A」と「小川榮太郎・B」は、お互いのことをまるで知らないように存在している。同じ人間だと知ったら、内部から崩壊してしまうことに薄々気づいているからだろうか。

自分はアル中ではないが、酒乱だった
「二つ目の理由」に生きている自信は有っても
「一つ目の理由」社会的な自分と自意識の折合が
うまくついていなかったのだろう
パリ、テキサス』や『ハズバンズ』などの
身勝手な男の映画を好んで見ていたのも
そのせいだと思う

結婚を機に、妻のやや男性嫌悪的な意見の影響もあり
そうでない自分を相対化してみたりする事で
社会的に要請される建前の自分と
意味の無い熱量を持って生を全うしようとする自分を
客観的にみられるようになった気はする
彼女の言語化能力の高さのおかげだ
でも身勝手な男の部分も相変わらずあるし
刹那的な衝動も減ったとはいえあるだろう

矛盾する自分で生きている限り
現実は躊躇なく矛盾を指摘してくる
その場その場で適当にとりつくろったり
現実から目を背けて自分に都合のよい言い訳をしても
いずれは人格が破綻すると思う
この自分に都合のよい言い訳というのも強力だし
適当にとりつくろう選択肢も習慣性がある

高橋源一郎のように、他人の全著作を読むという在り方は
全くすごいとしか言えない
知るほど自分の中にその人への理解が深まり
怒れなくなってしまうというのは興味深い
全ての人が全ての人の人となりを知ることができたら
誰も怒れなくなってしまうのだ

それでも他人の尊厳を侵すような言動は
怒りを持って非難されるべきなのである
否定されるのは人格ではなく行為だ
自分は意味もなくマヌケに生きていきたい
マヌケな自分を晒すことにもっと抵抗なくなりたいと思う
その為には「実際にしたい!」という熱量が鍵だ
今、自分は熱量を持って何をしたいだろうか

余計なお世話

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「空気を読む」という時の空気は
自分が勝手に想像するものである
「世間一般の当たり前」もそうだ
それなのに行動に影響を及ぼす

大なり小なり社会という場所は
仮想が物を言うゲームなんだと思う
社会自体が仮想で成り立っていて
それでいて実際に橋ができたりするのは
面白いといえば面白いだろう

自分の世界を形作るのは
自分が知覚した限定的な物事
ゲームに参加するものは
自分の世界を誰かにわかる形に表現する
表現しない人でも肩書が語っている事にされる
どっちにしろ参加させられる

もし困った事がなければ
やる必要はないゲームだ
でも生まれる前から
「参加するのが当たり前」と
決められているのである
人生では必ず困った事が起きるので
参加しなければ生きていけないみたいだ

表現された人物や物語が
誰かの共感を得られたり
好ましく思われたりすると
課題解決や目的達成を
誰かが応援協力してくれたりする
そんなことを互いにし合う
(命の危険がない状態では)

会社帰りに雨が降っていた
傘をさして自転車に跨ると
見知らぬおばちゃんが来て
「犯罪者扱いですよ」と言い捨て
足早に去って行った事がある

cakes.mu
>大きい主語で自分を語れるのがマジョリティ
を読んで、おばちゃんの事を思い出し合点がいった

傘のおばちゃんに嫌な気持ちになったのは
自分がマジョリティであると安心する人の
自分がマジョリティであるという思い込みからくる
当事者性の欠如した発言と態度に原因があった
もし「私は危ないと思うよ」と言われて
その場におばちゃんがいてくれたら
嫌な気持ちにはならなかっただろう

上記の対談では、卑近な例で引用するには申し訳ない位
重要なことを言っていると思う
ただ生きる事を制限されたり、抑圧される事に対する怒りの行動は
他人事ではなく誰でも考えておかねばならないのだと思うので
下記のリンクも貼っておく

imidas.jp

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答は全て途中だ
全ての答は過程にあるともいえる

例外は学問をしている時だけで
中でも数学は数という揺るぎない仮想の話なので
数学上の答はそれ以外あり得ない終着としての答だ
でも学問の対象が現実の事象になると途端に
その学問上の答は途中になる

経験則の精度が上がっても
知識が積み重なっていっても
現実には新しい現象は起こり続け
答は常に過程にある仮止めだ

それは生きるという事の本質だと思う
だからこそ常に可能性を見出せる方を
人は選ぼうとするのだと思う
可能性を見出す事は喜びである

可能性とは切なさでもある
それはいつか必ずゼロになる
夕餉の匂いが切ないのは
今生きているなあと思うからだ
廃墟は好きだが切なくはない
追憶には切なさを感じない

先に他の臓器がダメになるが
人間の脳は100年は成長し得るという
人間の生き方はまだ発展途上らしいが
そもそもなぜ100年も余裕があるのだろう

わかっているのは脳の成長の為には
ワクワクしなければならないという事
退屈な時は自分が退屈にさせている
ワクワクを諦めたら脳が退化する

変わらないと思えば変わらない
でも変わらなくても大丈夫だし
逆に変えてみても大丈夫である

脳の寿命の事なんかどうでもよいが
切なさを感じていきたいという話

エゴ

この世の知識を生物が知覚すると
ある場所でその経験が藻になる
その藻は柱状に積みあがって乾燥していく
そこでその藻を食べる一族がいるのだが
一族の子供の中には食べるのを嫌がるのもいる
ただ美味しいだけのお菓子が食べたいのである
ある日…という夢をみた
起きて妻に話したら、何と言われたんだっけ

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いつからあるのか忘れてしまったが
多分吉祥寺のむげん堂かチチカカで買った
何の為の物か、そもそも何の像なのかわからない
「マラカスを持った猿」と言えなくもないが
マラカスも手と一体化してたり
尻尾で支えなきゃ立てなかったり
(ここで猿になったのでは)
ぐるぐるの目とか、すごくテキトーな顔をしていて
結果「マラカスを持った猿」ですという感じで
ついでに作った感がすごくいい
多分バランスを取るために
微妙に傾いた身体の角度がいい
未だにトイレに置いてあって
毎日見ている


公演が続き、彼女は芝居をしている
あらためて芝居というものは面白い
役者が劇的に役として生きていると、感動する
感動すると、心や頭の中に何かが残る
だから作家や演出の作為の中でも
現実にはそうそうない劇的な筋を書きながら
現実に即して都合のよくない事が起こる本がいい
役者や作家の思い込みや願望は要らないが
それ以外の「個人的な事情」のない芝居はつまらない
役者がそこにいる理由、作家がそれを書く理由
当人が今、生きているという事が伝わってくると嬉しい
「個人的な事情」とはそれ以外あり得なくて
その人にとっての切実な思いが伝わると面白い
だから面白い本は、そこにブレがない
彼女のセリフ覚えに付き合う時など
ブレが無さ過ぎて、コワい位が丁度いいなと思う

あとどれくらい生きるか、いつ死ぬかわからないまま
当人が今直面している現実に、なんとか向き合って
こう思った上で自分は、こうして生きてますという
「個人的な事情」を説明なしで知りたい
難しいじゃねえか。大変なことだ

それでも彼女は
本に書かれていることを利用して
面白い演技をしてくる
どれだけ個人的に大変な時でも
「個人的な事情」からくる切実さも
伝えてきてくれる役者である
笠井幽夏子という
このブログに「私の事好きって書いて」と言う
かわいい

自分は誰かに「個人的な事情」を伝えられるのかといえば
今の感情が伝わる体の技術もなく
伝えることに苦心した文章も全然書けない
その癖、他人の事情は観たがるのだから
わがままなものである


今、欲しいものはラードだ
美味しい炒飯を作りたい

裸にラードを塗って寒さをしのぐ実験をしていた人がいた
今日のブログにある画像は主に南米にいたセルクナム族の成人式の時の男の写真である

  • セルクナム&ヤーガン族に夢中♪

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ただ生きて得た感覚、
知って浮かんだ思考を
表現して他に示すのは
自分にとって本能的な事だとは思う
内容に意味がなくても
自分が現象に行き合って
心に何かが起きたんだと
誰かに知ってもらえるだけでいい
人は生殖の為だけに生きているわけではない
子供を作るのは愛した結果であり
人生の唯一の目的ではない
生物としての本能というなら
まず情報共有が先にあるのではないかと思う


そして伝えたいのは好きなことだ
自分はただ生きているのが好きだ
ただただ、その場にいるのが好きだ
その場にある物や光と匂い、音などと
その場にいる私が作る影と動いて立てる音と
そういうものを感じているのが好きだ
そういう時に写真を撮ったり
そういう時に思ったことを後で文章に書いたりする
また「この場所でこの姿勢になった事がないから」やってみたりする
体を伸ばしたり振ったりしてみる
それは大概気持ちよかったりする
床に丸まって妻がやるヨガの真似事をしてたら
たちどころに便意が現れたりもする

ともあれ自分の表現に作為や意図はなくて
自分にとっては新しいと思えただけである
表現されたものが誰かにとって何かに見えたり思えたりすると
その誰かにとって作品になったりすると嬉しい
でも基本的には自分にとっての発見と
ひとり遊びが好きなんだと思う

それは探検というには、既に知っているはずの他愛のないもの
観光というには、対象が身近過ぎるものだ
顕微鏡も望遠鏡も、すごく楽しいと思うが
なんだかやり過ぎで、早く死んでしまう気がする
自分の体で観察したり、感じたりできるものがやっぱり一番面白い
自転車の修理が出来るようになりたい
あとしばらくは沖縄に居たい

子供の頃、いやつい最近まで
出会う人間社会のクソさや
自分も含めた人間のクズさを知って
「なんで辛い思いをしなけりゃならんのだ」
「こんな社会なんか俺も含めて存在価値がない」と思っていた
(主に泥酔して人に迷惑をかけた時の逆ギレである)
人の心の闇というより、しょうもなさを知り
歳を取り体も頭も壊れてくる事とか
社会の問題とは構造的な不備で
色々知らなかったこともあると知ってなお
「俺をひどい目に遭わせといてなんだそれは」
「社会なんてどうなってもいい」とすら思っていたと思う
でもあれ、自分の子供にもこの社会で
同じような思いをさせるのかしらと思うと
やっぱりなんとかしたいということになった

だから問題に行き会ったら、誰にでもわかるような
筋の通った否を言い続けていくしかないだろう
そして自分に都合の良い願望は捨てた方がいいだろう
自分でもみっともないと思う
SNSを見ても嫌になることばかりだけど
少なくとも、自分や他人の差別や偏見や
直面している現実の構造的な問題
下らない願望や思考の劣化などに
自覚的になれるのはいい
あとかわいいものとかはかわいい
それに、もう少しマシなところに
向かっている気がしないでもない
社会こそ集合知であるべきだというのは
誰でもそう思うのではないだろうか

もし情報共有が人間の本能的なものなら
現在どんなにクソで嫌でも、なくなりはしないし
それにもし自分が生きている内に
何にもよくならないとしても
自分が他人から見向きもされなくなり
社会に関わることすらできなくなったとしても
風通しの良い部屋で
じっと横になっていられさえすれば、
生きていることに感謝できると思う
できれば妻と一緒に
これが自分の「個人的な事情」でありエゴだ

でも人生に感謝しつつ、クレームを言う生き方
それで望みが叶うのだろうか